エジプト神話egypt

エジプトの神話

「エジプト・アッシリヤ・バビロン神話と傳說」(中島孤島編、昭和拾年)からエジプト神話をいくつか抜き出してみました(下のハイパーリンクをクリックすると小見出しに跳びます)

開闢神話及びエヂプトの神々

死後の生活

エジプトの開闢神話は旧約聖書創世記1章の万物創造の話と似ています(本文の☞をクリックすると似た話の旧約聖書逐語訳が開きます)

初めは混沌としていたこと　神が水の上を動いたこと　天と地を創ったこと　光を創り昼と夜を照らしたこと　男女を創り人間の為に世界を種々の生き物で満たしたこと

開闢神話及びエヂプトの神々

世界のはじめには、地も海も空もなく、たゞどろどろした水のやうなものが、果てもなくひろがつてゐた。

☞創世記1:2

その名をヌウといつて、そのなかに一つの神があつた。

この神はヌウと共にはじまり、ヌウの中に宿つてはゐるが、まだ形もなければ、働きもなく、後にこの美しい天と地を造り出すやうな、何のしるしをも見せなかつた。

そのうちに、時が來て、神のうちに、自分の名を名のりたいとい心が起つて來た。

『わが名は、夜明けにはケペラ　日中にはラー　夕刻はツームである』

かういふと、まづきらきらした卵の姿となつて、水の上へ浮んで來た。

そして種々の神神や、男や、女や、動物や、植物が、つぎつぎに、この神によつて創造された。

ケベラははじめその氣高い姿を以て、ヌウの全面をおほうてゐたが、自分の住むべき場所がきまらなかつたので、その浮んでゐる水を分けて、天と地を造らうと思つた。

そこで神はまづ、風の神シュウと雨の女神テフヌウトを造り、次ぎに地の神セブと大空の女神ヌウトを造つた。

シュウは神の命によつて、ヌウトを高く天上にさし上げた。

そこでヌウトは、地の神セブが、長くなつて寝てゐる上に、弓形にのりかゝつて、手足の指先を、西と東の地平線に、すれすれにして、自分の身をささへることになつた。

かうしてこの女神の胴や手足の上についてゐる無數の星が、暗い中から、きらきらと光りを放つやうになつた。

☞創世記1:3

けれどもこの天地には、まだ晝と夜との別がなかつた。

そのうちに、シュウとテフヌウトのうしろに、かくれてゐた、ヌウの目が、次第に、水の面からのぼつて、大空に達したので、天地ははじめてその光りに照らされるやうになつた。

その時から、ヌウの目は、日每に、空を橫ぎつて、地上のすべてのものを見下し、そこに光りと熱とを與へるやうになつた。

☞創世記1:5

つぎに、神は、夜を照らすために、もう一つの目を天上に送り、また淚を地上に落して、多くの男と女を造つた。

☞創世記1:27

その後、地上の人間を守らせるために、多くの神々を造つた。

オシリス　イシス　セット　ネプチス　ホルスなぞはその重なるもので、シュウ、テフヌウト、セブ、ヌウトの諸神と共に、のちにヘリオポリスの重なる神々として祀らるゝものである。

神はまた地上の人間のために、禽獸草木を造つて、この世界を、種々の生物で充たした。

☞創世記1:21

☞創世記1:25

エヂプトの神話には、なほいくつかの天地創造說が傳へられてゐるが、以上に述べたのが、一番まとまつた、代表的な說である。

この神話によつても、うかゞはれるやうに、エヂプト神話の中心は、いはゆる太陽神話で、エヂプト人が最上の神として崇めるのは、太陽神ラーであつた。

エヂプト人の信仰によると、ラーは、朝、東の空にあらはれ、日の船にのつて、天上を橫ぎるものと考へられてゐた。

この旅行の間に、ラーは絶えず地上の人間を見下して、その行爲の善惡を見分け、また彼らに光りと熱とを與へるのである。

夕方には、西方の山の後へはひつて、そこから暗黑な下界へ沈んで行く。

そして夜の間は、地の底を流れる大河の荒波を分け、その道をさへぎる種々の敵と戰つて、正しい人間の靈魂を、船の中へすくひ上げながら、曉方には、再び東の空にあらはれる。

ラーは本來北方の神で、その崇拜の中心は、ニイル河の下流地方にある、ヘリオポリスであつたが、南北統一後、そこから次第に、エヂプトの全國にひろがつて行つた。

そして後に上エヂプトのテーベが勢力を得るやうになつてからは、その地方の主神たるアメン結合して、アメン・ラーとして崇拜された。

ラーは、普通に人間の姿であらはされてゐるが、時によると、鷹の頭をつけた人間の姿にあらはされることもある。

つまりエヂプトでは、古くから、鷹を以て太陽をあらはす習慣があつたからで、その他の諸國でも、鷲や鷹なぞの鳥類を、太陽の象徴とすることは、一般に行はれた風である。

アメンはまたアモンといひ、本來カルナックの地方神で、その名稱の起原は、明瞭でないが、一說には、『隱れたるもの』といふ意味だといはれてゐる。

この神の像は、或は玉座によつた人間の姿、或は人身蛙首、或は人身蛇首、或は猿、或は獅子、或は人身羊首の姿であらはされてゐるが、中でも頭上に、赤と青のだんだらに染め分けた一對の長い羽飾りをいたゞき、顎髯を垂らした人間の姿をしてゐる像が最も多い。

後に太陽神ラーと融合してからは、後者の屬性をとつて、人身鷹首の姿にあらはされるやうになつた。

アメンの崇拜の中心は、二イル河谷のテーべで、第十二王朝の時までは、單にこの地方の神たるに過ぎなかつたが、この王朝がテーべから起つて、全エヂプトを統一するに及んで、その崇拜は速かにエヂプトの全土にひろがり、多くの地方神の屬性をその一身に集め、遂にはアメン・ラーの名を以て、『神々の王』と讃へられるやうになつた。

アメンはまた『地上の王の王』として、歴代の王はこの神の化身と考へられ、またその皇后は、この神の司祭として、神の胤を宿すものだと信ぜられてゐた。

アメンの配をムウトと云ひ、『神々の女王』として、地上の萬物を生む『一切の母』と考へられてゐた。

この女神は通例南北兩エヂプトの王冠をいたゞき、手に笏をとつた姿であらはされてゐるが、時には母性の表象たる兀鷹若しくは女獅子の姿であらはされることもあつた。

アメンとムウトの間に生れた神をコンスウといひ、月の神で、農作物又は家畜の守護者とされ、又若い男女の心に愛を吹き込む神として崇拜された。

エジプトの神々のうちで、一番廣く崇拜されたのは、オシリスであつた。

オシリスは本來北方の神であるが、南北統一後、その信仰は一般に盛んになつた。

この神は地上の人類に、さまざまな生活の道を傳へ、同胞のやうに相愛して、平和にこの世を送らせるために、人間の形で天から下された神であつた。

併しその同胞の神にセット又の名をチフォンといふ悪神があつて、秘密な計略をまうけて、人知れずオシリスを殺してしまつた。

そこでオシリスの妻のイシスは、その夫の遺骸をたづねて、諸國をさまよつた末、やうやう見つけ出して、一旦は蘇生させたが、セットに見つけられて、再びその生命を奪はれてしまつた。

オシリスの遺子ホルスは、母のイシスの手で養育され、成長の後、チフォン討伐の軍を起し、はげしい戰ひの後、その敵を破つて、父の王位を囘復した。

この物語は、後世エヂプト人の間に、廣く傳誦された傳說の一つであるが、なほくはしくは後の章で述べることにする。

オシリスはその生前に受けた苦難のために、死後は下界に下つて、死者の裁判官となつた。

彼は地下の世界に住んで、每夜ラーの船と共に、暗黑の谷に下つて行く無數の靈魂に、それぞれの審判を與へるのである。

オシリスについで崇められる神にトートがある。

トートは智惠の神で、下界の法廷では、オシリスの傍に立つて、人間の心の目方を計る秤を眺めながら、手に紙と筆をもつて控えてゐる。

この理由から、トートは神の書記と呼ばれてゐる。

この神の像は鶴の首をもつた人間の姿に描かれてゐる。

そしてその頭の周圍に新月の形をした後光がついてゐるのは、時を定める神とされてゐたことを示すものである。

この他の神々には、イシスの妹のネプチス　オシリスとイシスの子のアヌビス　それから前に述べたオシリスの弟のセットなぞがある。

ネプチスは死の神で、アヌビスは墓場の守神で、セットはすべての害悪の源で、人類の敵と考へられてゐた。

エヂプト人は神々は地上に下つて、常に人間の行爲を監視するものだと信じてゐた。

そしてさういふ場合には、神々はいろいろな動物の姿になつてゐると信じてゐたので、自然にいろいろな動物を神の化身として崇拜するやうになつた。

たとへばエヂプト產の大甲蟲をケペル・ラーの化身と信じ、山犬をアヌビスの化身とし、鶴をトートの化身として崇拜した。

そしてかういふ神の動物を殺したものは、たとへ過失にしても、死をもつてその罪を償はなければならないものとされてゐた。

なかにもエジプト人の最も崇拜した動物は、下界の神オシリスの化身として尊敬された牡牛であつた。

後にオシリスの神殿に仕へる神官は、一定の特徴をもつた牡牛を選んで、神獸とし、これをアピス・ブルと呼んで崇拜した。

アピスは全身が漆のやうに黑く、額に三角形の白い斑點があつて、背中の毛は鷲の羽をひろげたやうな形になつてゐる。

その上右の側腹には、三日月形の白い斑點と、咽の下に大甲蟲のやうなしるしがあつた。

かういふ特徴のある牛が見つかると、エヂプト全國はにえかへるばかりの騒ぎをして、その吉兆を祝ふのであつた。

そしてこの神獸が母の乳からはなれるのを待つて、祭司らはこれを二イル河の岸に運び、美しく飾り立てた船にのせて、メンフィスへ迎へ、そこに立派な神殿を建てゝ安置した。

アピスは一生の間、この神殿の中で人々の奉仕を受け、每年の誕生日には、盛んな祭りが行はれた。

アビスがその神殿で命を終ると、エヂプト全國は哀悼の意を表して、第二のアピスが發見されるまで、喪を續けるのであつた。

アピスの遺骸はミイラとして葬られるのであるが、その葬つた場所は深く秘して、何人にも知らせないやうにした。

近年この墓地は發掘されて、はじめてその秘密が發かれたが、これらの墓は地下の岩を掘つて作つた廣大な岩屋のうちにあつて、通路の兩側には、無數の部屋が設けられ、各々の部屋に巨大な石の柩が安置されてゐた。

鳥のうちでは、鷹と鶴が最も神聖なものであつた。

雪のやうな羽と、眞黑な尾をもつた鶴は、トートの神禽とされ、鷹はホルスの表章として崇拜された。

死後の生活

一　原始民族の信仰

エヂプトの原始民族は、人間の生を現世限りのものとは考へてゐなかつた。

凡ての人間には、影が形に添ふやうに、現身につきまとふものがあると信じて、これをカーといふ名で呼んでゐた。

カーは目には見えないが、人と共に生れ、一生の間、その人につきそつてゐる。

そして人が死んだ後にも、カーだけは生き殘つて、墓のまはりに留まつてゐると考へてゐた。

エヂプト古代の住民が、死者の墓前に、水や食物をさゝげ、また生前に用ゐた樣々の器物や道具類を死體のまはりにおくのは、このカーに不自由をさせないためであつた。

古代の墓には、カーはよく兩腕をさし上げた形であらはされてゐる。

カーはひとり人間にゐるばかりでなく、すべての物が、それぞれにカーをもつてゐると信じられてゐた。

魚も、鳥も、獸も、草木も、石も、金も、更に人間の手で造られた衣服や、武器や土器に至るまで、みなそれぞれのカーをもつてゐた。

以上のカーに對して、人間の魂を、エジプト人はクーと呼んでゐた。

クーは人間の體内に住んでゐるが、人が眠つてゐる間にば、體內から逃げ出して、諸方をさまよひ、いろいろな場所へ行つて、いろいろな人に出會ふことがある。

さういふ時に、人は種々の不思議な夢を見るのだと考へてゐた。

また人が夢のうちに、死んだ知人にあつて、いろいろな話をすることのあるのは、その人のクーが、死んだ知人のクーに出あふからである。

時としては、遠方にゐる人の姿を、まざまざと見るやうなことがある。

その時には遠方にゐる人のクーが、その人の眠つた間に體內を出て、その人の平生着てゐる衣服のカーを身につけ、その人の杖のカーを手にもつて、やつて來るのだと考へてゐた。

かういふ場合には、その姿が、ふと現れて、かき消すやうに消えてしまふので、はじめて、それが先方のクーであつたと分るのである。

併しクーの訪れは、聲だけ聞えて、姿の見えないやうな場合も多いのである。

墓の畫には、クーは鳥冠のある鳥の姿であらはされる。

それは『光榮あるもの』又は『光り輝いたもの』といふ意味の繪文字である。

そして墓に眠つてゐる人をあらはす時には、カーの兩腕の間に、クーの姿をおくのが例であつた。

古代エヂプト民族の間には、以上のカー及びクーとは別に、バー(と呼ばれる、人頭の鳥を信ずる習慣があつた。

バーもまた人間の靈魂をあらはしたもので、生前には、人間の體內にあるが、死後は、體外に飛び去り、死者のミイラの周圍を徘徊し、又時にはミイラの上にとまつて、ぢつとその顏を見入つて、再びその體內に入らまほしき樣子を示すのが常であつた。

パーもまた食物と水を、墓地の女神から與へられて、生存するるのだと信じられてゐた。

彼らの間には、また一旦飛び去つた魂が、再び死體に結びついて、新しい生を享ける時があるといふ信仰から、死體を保存する習慣があつた。

この習慣から、ミイラを造る技術が次第に發達し、特に國王や貴族の肉體は、必ずミイラとして、墳墓中に安置し、一旦飛び去つた靈魂の、再びその中に歸る時を待つことになつた。

かういふ種々な信仰は、その最初は、恐らくニイル河畔に占住した別々な種族の間に、發生したものであつたらうが、後に各種族の混融と共に、その信仰も互に相混じ、更にラー及びオシリスの信仰と結びついて、死後の世界に關する種々の複雑な神話を生ずるやうになつた。

二　エヂプト人の天國

古代のエヂプト人にとつては、この世界は現在われわれが考へてゐるやうなものではなかつた。

彼らはその經驗の範圍から、自然に世界を細長い谷のやうに考へてゐた。

そしてその谷の四方は高い山でとり圍まれ、頭の上には、空が天井のやうにひろがつてゐた。

エヂプト人はこの空を人間の顏のやうに考へて、太陽と月は左右の眼で、その頭から垂れ下つた長い髪の毛が、柱になつて、天の屋根をさゝへてゐるといふやうに想像した。

またある地方では、この世界の上には、大きな一匹の牝牛が立つてゐて、人間はこの牝牛の腹を眺めて空だといつてゐる。

そしてこの牝牛は每朝一匹の仔牛を生む。

それが太陽であるといふやうにも考へてゐた。

けれども一般には、空は鐵で出來た天蓋のやうなもので、この世界をとりまいてゐる山々の四つの峰によつてさゝへられてゐる。

空の上には、東から西にかけて、一つの大河が流れてゐる。

日神ラーの船は、每朝東方にあらはれて、この大河を渡つて、夕方には、西の山蔭へ沒して行く。

この山の後には、深い淵があつて、天上の河は恐ろしい勢でこゝへ落ちこんで行くので、太陽の船も、それと共に、地下の世界に沈み、地下の流れを傳はつて、翌朝は、再び東の山の端にあらはれるのである。

併し太陽の船が、地下の世界を旅行する間は、ラーはもう船の中にはとどまらず、たゞの影だけを殘して、自分は天上へかへつてゐる。

空の上には、神々の住居があつて、そこには、ラーをはじめ種々の男神や女神が集い、また生前の善行によつて、この天國の生活を許された人間も、ここに住んでゐる。

この天國は一に『平和の野』と呼ばれて、ラーは獅子の首と牡牛の脚で飾られた立派な玉座について、この國を支配してゐる。

彼の玉座の周圍には、澤山の神々が、かしこまつて、その主神の命を待つてゐる。

そこにはラーのほかに、なほ幾つかの天神があつて、めいめいに澤山の從者をもつてゐる。

またこの國にのぼされた人間は、神々に比べると、みすばらしいものではあるが、それでもこれまで住んでゐた下界の生活に比べると、くらべものにならないほど幸福なものであつた。

そこには、もう下の世界で經驗するやうな、苦痛とか悲しみとかいふものはなかつた。

國中には、肥沃な野が一面にひろがつて、運河は縦橫にその間を通じて、天上の大河からひかれた水が、いつも溢れるやうに流れてゐる。

小麥はいつも白い穗をかしげ、大麥は黃いろいろ色づいてゐる。

また小高い丘の上では、葡萄や、無花果が紫の實をつけて、人々のとるのを待つてゐる。

あちらこちらに無花果の大木が枝葉をひろげて、ふかい蔭を地に落し、人々のために、よい休み場を作つてゐる。

けれどもエヂプト人の天國には、よく他の民族の神話に出て來るやうな金銀珠玉をちりばめた宮殿や、目の眩むやうな黃金の機閣が立ちならんではゐなかつた。

そこの住民名、なすこともなく遊んで暮してのるのとはちがつて、めいめいに現世でやつて來たとほりの勞働をして、畑も耕せば、種も蒔き、收穫の時が來ると、麥をかつたり、こなしたりする。

たゞ下の世界とは違つて、心のうちには、何の心配もなく、樂しい心で、働いて、日を送つてゐる。

下界にゐた時分には、日夜の心配の種であつたニイル河の水の高さも、こゝでは氣にかけるに及ばす、何事につけても人と爭婦ふ必要もなかつた。

けれども下界を去つた人間は、だれでも天國の幸福を得られるわけではなく、その中から選ばれたほんの僅かの靈魂が、暗い地下の谷に於ける長い恐ろしい旅行をしおほせて、はじめてこの國へ迎へられるのであつた。

そしてその他の澤山の靈魂は、この旅行の中途で倒れて、地獄の苦しみを受けねばならないのであつた。

三　地下の世界

エヂプト人はラーの船が、每朝その旅行をはじめる東方の峰をバクーと呼び、一日の船路を終つて、地下の世界に落ちて行く西の山をマヌと呼んでゐた。

マヌの蔭に沒した太陽の船が、再びバクーの頂上にあらはれるまで、そこには長い暗黑の旅路がつゞけられるのであつた。

エヂプト人は、前に述べた天上の世界をアアルーと呼び、これに對してこの地底の領土をツアトと呼んだ。

このツアトは死の手によつて運ばれた人間の魂が、ゆくところで、この暗い恐ろしい谷間を通り越さなくては、人間の魂は天上の樂土へ行くことは出來ないと考へられてゐた。

ツアトの中心はアメンテットといふ深い谷間であつた。

そこは半圓形をした長い谷間で、兩方の岸には、大きな岩が立ちならんで、マヌの崖を流れ落ちた天の河の水が、急流となつてこの谷を流れてゐる。

谷の中に永劫の闇にとざされ、眞黑に濁つた水の面からは、恐ろしい毒瓦斯が立ちのぼつてゐる。

そればかりでなく、この谷の中には、至るところに恐ろしい毒蛇がゐて、その餌食を待つてゐるので、どんな强い人間でも、平氣でここを通りぬけることは出來ないのである。

ツアトは十二の國に別れてゐて、それぞれの入口には、堅固な石の壁と、高い門があつて、恐ろしい毒蛇がその門を守つてゐる。

この門をくゞるだけでも容易なことではないのに、中へはひつてからでも、兩側の岩には、大きな蛇が蜷局を卷き、或は崖の上から首をのばして、その下を通る旅人を一口に呑まうとしてゐる。

かういふ恐ろしい世界だから、人間の魂は神の助けなしには、無事に通過することの出來ないのは分つてゐる。

そこで現世から運ばれた靈魂は、每夜アメンットの入口に集まつて、ラーの船がこの國に下つて來るのを待つてゐる。

そして船が來たと見ると、みんなその周圍へたかつて、乘せてもらはうとする。

併し船が小さいので、充分に旅仕度の出來てゐる亡者は、船の中へ入れてもらへるが、仕度の不充分なものは、後へのこされて、空しく毒蛇の餌食になるものもあれば、眞黑な水の底へ落ちて、大きな鰐に呑まれるものもある。

幸にしてラーの船に乘こんだ者は、ラーの保護の下に立つことになるのだが、それでもまだ決して安心する譯にはゆかない。

それから先にも、さまぐの敵があつて、岸からも水底からも、船の中の餌食をねらつてゐるので、船に乘りながらも、絶えずさういふ强敵と戰つてゆかなければならないのである。

かういふ戰ひは隨分はげしいことがあつて、時には船をひつくりかへされさうなこともあるが、それでもラーの助けで、どうかかうか難場を切りぬけて行く。

こんな風にしてラーの船に乘こんだ靈魂は、ともかくもツアトの五つの國は無事に通りぬけて行くが、いよいよ夜中頃になつて、船は一番恐ろしい六番目の國へ着くのだ。

そこにはオシリスの法延があつて、人間はこゝで地上で行つた行爲を審判されなければならないのである。

そしてこの審判に関しては、ラーの力でもどうすることも出來ないのである。

めいめいの靈魂は、ひとりひとりオシリスの前に連れられて行く。

廣い法廷のはるかの端に、目も眩むやうな黃金の玉座が据ゑられて、恐ろしい死者の裁判官は手に笏をとり、頭には兩エヂプトの王冠を戴いて端然とそこにひかへてゐる。

玉座の兩側には、妻のイシスと妹のネブチスが立ち、玉座の前には、心の目方を計る役のアヌビスが、秤の前に跪き、書記役のトートは、手に紙と筆をもつてその側に立つてゐる。

法廷の兩側には、四十二の神々が、象牙と黃金の椅子にかけてすらりと並んでゐる。

人間の靈魂は、ふるへながら、九つの階段をのぼつて、オシリスの前に立つ。

玉座のすぐ側には、底の知れない地獄が口を開いてゐるのを見て、だれでもぞつとして身をちゞめずにはゐられない。

けれどもそれも一瞬間で、人間の靈魂は四十二の神々から、連發される、いろいろな質問に答へなければならない。

『お前は盗みをしたか』と第一の神が尋ねる。

『お前は人を欺したか』と第二の神が尋ねる。

『お前は人を殺したか』と第三の神が尋ねる。

『お前は神々を敬つたか』と第四の神が尋ねる。

『お前は隣人を愛したか』と第五の神が尋ねる。

こんな風な審問が、あとからあとからと續いて來る。

併し生前に聖書を讀んでゐたものは、聖書にあるとほりのことを答へて行くので、ともかくもこの審問を無事に通過する。

けれどもむづかしいのはそれからである。

神々の審問が終ると、靈魂の支配者ホルスが前へ進んで、亡者の手をとつて、オシリスの玉座の前へ連れて來る。

そこでこの亡者の心を秤の一方の皿へのせ、一方の皿には、眞理の表章である一枚の羽をのせる。

人間の靈魂は震へながら、秤の竿を見つめてゐる。

もうここへ來ては何のいひぬけも役には立たない。

彼は動かすことの出來ない永久の眞理の前に立つてゐるのだ。

若し彼の心をのせた方の皿が重いか、または羽をのせた皿と平均すれば、それでオシリスのお許しが出るのである。

けれどる若しひよつとして心の方が軽かつたらもうおしまひだ。

泣いてわめいても何の役にも立たない。

彼は終に神々の從者にとらへられて、底の知れない穴の中へ投げ込まれねばならないのだ。

こゝでオシリスの許しを得た幸福な靈魂は、もう一度法廷から引出されて、ツアトの七番目の國に待つてゐるラーの船に乘せられる。

これからの旅行はずつと樂で、もう恐ろしいことはないのだ。

靈魂はめいめいに、自分の善人であつたことを自覺してゐるから、非常に勇氣が出て、もうどんな敵に向つても恐れるやうなことはないのである。

けれども日の光りを見る前になつて、もう一度船は恐ろしい危険を凌がねばならないのである。

ツアトの第十二番目の國へ來て、ラーの船はもう一度恐しい敵に出會ふ。

今迄に見なかつたほどの大きな蛇が、谷をふさぐばかりになつて、河の憧中に橫たはつてゐる。

若し船がうまくその兩側を通り越すか、或はその上を乘り越えなかつたら、船ごと呑まれてしまうほかはないのだ。

その上、谷の周圍はこれまでよりも一層深い闇に包まれてゐるので、航海の危險は殆ど極度に達するのだ。

若しラーの保護がなかつたら、このもう一步といふところまで來て、失敗することがないとも限らない。

幸ひにラーの力によつて、この難場を漕ぎぬけると、もうその前途にかすかな光りが現れて來る。

光りは見る間に增して、たうとうツアトの領土の最後の出口に達するのだ。

その時、大きな門はギーと開かれて、天國の歌がしづかに聞えて來る。

同時にラーの船はぱつとした光りの世界に入るのである。

かうしてラーの船が再びバクーの頂上に現れる時に、救はれた靈魂は、アアルーの野に迎へられ、天國の住民と、聲を合せて聲高く、護美の歌をうたふのである。

ラーの神話

一　秘密の名

ラーはこの世界と神々を造り、また水や陸に住むいろいろな動植物を造つた。

この時、地上の人間は、ラーの眼から流れ出した涙から生れたと傳へられてゐる。

さてラーは天地萬物の造主として、永い間、この世界を支配してゐた。

ラーの支配がどのくらゐ續いたか、その永さは殆ど計算も出來ないほどであつた。

その間ラーは每日人間の姿になつて、この地上をさまよい、そして人間の行爲を監視してゐた。

ある時、女神イシスは、しばらく人間の姿になつて、この地上に住んでゐた。

イシスは非常に智惠のある女神であつたから、人間の役に立つやうないろいろな手藝を人間に教へて、人類の文化を進めるやうに骨を折つてゐた。

さうやつてゐるうちに、イシスは無知な人間の中に立ちまじつて、單調な生活を送つてゐるのがつまらなくなつて來た。

もう一度天へかへつて、ラーと同じやうに、高いところから、この地上の人間を支配して見たいといふやうな望みをもつやうになつた。

ラーはいろいろな名をもつてゐたが、そのうちにも、どんな神にも、人間にも、知らせない一つの秘密の名があつた。

ラーの絶大な力の本源は、この秘密の名のうちにあると考へられてゐたが、だれもまだこの名を知つたものはなかつた。

そこでイシスはふとこんなことを考へた。

『どうかしてラーのあの秘密の名を知ることが出來たら、わたしだつて、ラーと同じだけの力をもつことが出來るだらう』

イシスは自分がもつてゐる魔術の力で、どんな神にも、人間にも、知ることの出來ないラーの秘密を、さぐり出さうと決心した。

每朝ラーは、バクーの山の端から、永劫の船にのつて、空を橫ぎりつゝ、この地上を見下した。

併しその時分には、ラーももう大分年をとつて、丁度年とつた人間と同じやうに、ものをいふたびに、口から涎を流すやうになつた。

イシスはある日、ラーが空から落した涎をとつて、土とまぜて一つの蛇の形をこしらへて、何か咒文を唱へると、見る間に、蛇になつて動き出した。

イシスはその蛇をつまみあげて、いつもラーの通る道へ這はしておいて、年寄つた神の來るのを待つてゐた。

間もなく、ラーはいつものやうに、人間の姿になつて、澤山の神々を供につれて、世界の樣子をさぐりに來た。

ラーはいつも歩きつけた道をとほつてやつて來ると、ふいに道端から一匹の蛇がとび出して、ラーの足を噛んだ。

すると見る間に、蛇の毒は全身にまはつて、ラーは大變な苦悶をはじめた。

ラーの呻き聲は天に達するばかりだつたので、お供の神々は驚いて、口々にたづねた。

『どうなさいました。何事が起つたのです?』

けれどもラーはなんの返事をしなかつた。

あまりの苦しさに、ラーは口をきく力もなく、眞靑になつて手足をふるはし、齒をがちがちさせてゐるばかりであつた。

丁度ニイル河の水が、エヂプトの全國に溢てゆくやうに、恐ろしい毒は、ラーの全身にまはつて行つた。

併ししばらくするうちに、ラーは、勇氣をふり起して、苦痛をしのびながら、かういつた。

『みんなこゝへ來て、わしの話をきけ。

何かわからないが、恐ろしくわしの足を噛んだものがある。

わしの目には、その姿が見えず、またこれまでにさういふるのを造つた覺えもない。

併しわしはまだこれほどの苦痛を感じたことがない。

わしは神だ、神の子だ。

わしの父のヌウが、わしの力の源になる秘密の名を考へて、わしの胸のうちに深くかくしておいた。

どんな魔法つかひでも、これだけは知らない。

もしこれを知つた者は、わしにとつて代るだけの力をもつやうになるだらう。

わしは今、自分の造つた地と人間を見まはつてゐる道で、ふいにこんな目にあつたのだ。

それは火ではないが、まるで火のやうにわしの體內で燃えてゐる。

また水ではないが、わしのからだは冷たくなつて、手足ががたがたとふるへてゐる。

さあ、お前たちは早く行つて、わしの子供たちをのこらずこゝへ呼んで來い。

だれかきつとわしの苦痛をなだめるやうな咒文を知つたものがあるだらう』

神々はこの命令に從つて、ぢきにラーのまはりへ集まつて來た。

その中にまじつて、魔法つかひのイシスも來た。

神々は思ひ思ひに咒を唱へて、父神の苦腦を除かうとしたが、何の效もなかつた。

毒はいよいよラーの體內で燃えさかるばかりであつた。

神々は深く悲しんだが、イシスはひとりだまつてゐた。

彼女はどんな苦痛をも和らげ、死んだもを蘇らせる咒文を知つてゐた。

やがてイシスはしづかにラーの前へ進んで、かういつた。

『父よ、どうなすつたのです?

きつとあなたは、御自分でお造りになつた蛇に噛まれなすつたのでせう。

わたくしが咒文をとなへて見ませう。

わたくしの魔術で、あなたの敵を調伏してお目にかけませう。

さうです、あなたの榮えの御光によつて、きつとその毒蛇を退治して見せませう』

これをきいて、ラーはいつた。

『何か恐ろしい毒をもつたものが、わしを噛んだのぢや。

火ではないが、わしの肉の中で燃えてをる。

水ではないが、わしのからだは、冷たくなつて、手足ががたがたと震へてゐる。

わしの眠もかすんで來た。

わしの顔からは、汗がぽたぽたと流れ落ちるほどだ』

イシスは父神の前に身を進めて、かういつた。

『今となつては、あなたの秘密のみ名を、おあかしにならなくてはなりません。

あなたのみ名の力よりほかには、そのお苦しみをとめることは出來ません』

『わしは造物主だ。天と地とを造つたのは、わしだ』

とラーは悲しさうに、イシスを見て答へた。

『わしはこの大地を造り、山々を造り、またあのはても知れぬ大海を造つた。

わしの一言で、ニイルの水は、エヂプト全國をひたすのだ。

わしはすべての男神や女神たちの父だ。

彼らに生命を與へたのはわしだ。

この乾いた土と底知れぬ海に棲む、あらゆる生物を造つたのもわしだ。

わしが眼を開けばこの世界に光りが充ち、わしが眼を閉げば、この世界は闇にとざされるのだ。

わしの秘密の名は、神々でさへ知らないのだ。

わしは明方はケペラだ。

日中にはラーだ。

そして日沒にはツームだー』

ラーはかう語つた。

併しこの偉大な力をもつた全能の神でも、自分の惱みをどうすることも出來なかつた。

毒は肉の中で、いよいよ燃えさかり、手足は木の葉のやうにぶるぶると慄へてゐた。

魔術つかひのイシスは、ラーの答へをきいて、たゞ心の底で冷笑した。

彼女の胸には、何事をおいても、ラーの力を自分のものにしたいといふ思ひが充ちてゐた。

是が非でも、ヌウがその胸のうちに秘めておいた秘密の名を、ラーの口から聞かなくてはならない。

かう思つて、イシスはなほもラーに向つて、詰めよせて行つた。

『天の父よ。あなたは、今、御自分の素性をねおあかしになりました。

けれどもまだあなたのみ力の源となつてゐる秘密のみ名をお洩しにはなりません。

もし只今のお惱みをのがれたいと思召しますなら、どうぞ、この秘密のみ名を、わたくしにおあかし下さいませ。

すればこのみ名の力とわたくしの習ひおぼえた咒ひとで、きつとあなたをお救ひ申すことが出來ませう』

かういつてゐるうちにも、ラーの體內では、恐ろしい毒が、火のやうに燃えさかつてゐた。

その荒れ狂ふ焰のために、ラーの肉は焼けたゞれて、今にも灰になつて、消えるかと思はれるばかりであつた。

イシスはぢつとその苦しみを見つめて冷やかに待つてゐた。

終に全能の神は、威厳ある聲で、かう叫んだ。

『わしはイシスにわしの秘密の名を授けよう。

それは今わしの心から出て、イシスの心に入るだらう』

ラーはかう叫んだ。

その時早く、ラーの姿は神々の眼から消えて、世界は底知れぬ闇に包まれてしまつた。

イシスは闇の中に立つて、ぢつと待つてゐた。

そしてラーの秘密の名が、その心をはなれて、自分の心にはひつたのを知ると、わが子のホルスに向つて、そつとかういつた。

『今こそ、わたしの咒ひの力で、父なる神をして、その二つの眼を――日と月とを――お前に譲ることを承知させました』

イシスの望みは遂に達せられた。

イシスは神の秘密の名が、自分の胸に入つたと知るや否や、聲を張りあげて、かう叫んだ。

『おゝ、毒よ、ラーの體內を去れ!

彼の心から、彼れの肉から、はなれて、光となつて、彼の口から流出せ!

.さあこの咒いで、蛇は毒を吐いて、退散した。

ラーは生きるだらう。

毒はもう消えてしまつた』

といふや否や、ラーの惱みは拭うに薄らいで行つた。

毒は見る間に、ラーの體內からはなれて、もう一度元の健全な、偉大なラーにかへつた。

そしてイシスは、この時から、すべての神々を支配する力をもつやうになつた。

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