パレスチン民間�~話傅說集

「ヘブライ・パレスチン�~話と傳說」(松村武雄編、昭和拾年)からパレスチナの神話と伝説をいくつか抜き出してみました(下のハイパーリンクをクリックすると小見出しに跳びます)

人間創造と失樂園

ノアの洪水

イブラヒムとニムルード王

�~の試みと魔の手

生命の樹の枝

基督にうつ釘

さまよへる猶太人(その一)

さまよへる猶太人(その二)

人間創造と失樂園

昔�~が、世界のさまざまの地方から、さまざまの土を採つて、最初の人であるアダムを造つた。

�~はアダムを造り上げると、大地の上に��へた。

アダムは人形のやうに動かないで四十日が間地面に倒れたままにしてゐた。

�~は天使たちを呼びよせて、

『わしがこの男を活きて動くやうにするから、動き出したら、みんな大事に崇め尊ばなくてはならぬ』

と云つた。

そしてアダムの鼻の孔から息を吹き込むと、忽ち生命が體中に入つて活きて動くやうになつた。

それを見ると、天使たちはみなこれを崇め尊んだが、ただイブリスといふものだけは、傲然と構へてゐた。

�~はそれを見て、

『イブリス、そなたはなぜアダムを崇め尊ばないのぢゃ』

と責めた。

『たかが土から出來たものに、頭を下げるのは嫌です』

と、イブリスが答へた。

これを聞くと、�~は非常に怒つて、

『わしの云ひつけに背くものは、ここに住ませて置くわけに行かぬ』

と云つて、イブリスを樂園から追ひ出してしまつた。

イブリスは、ひどくアダムを恨んで、

『おれが樂園から追い出されたのは、全くアダムのせゐだ。

このままにしては置かぬぞ』

と云つて、魔王サタンとなつて、アダムの子孫である人間に執念深く仇をするやうになつた。

�~はアダムを男女兩性にこしらへたのであつた。

で、體の半分は男で、他の半分は女であつた。

暫くの間さうしてゐるうちに、やがて二つに分れて、立派な男と立派な女となつた。

男はやはりアダムと呼ばれ、 女はリリスまたエル・カリネーと呼ばれた。

リリスは猶太人が呼ぶ名であり、エル・ カリネーは亞拉比亞人の呼ぶ名であつた。

二人は�~の云ひつけに從つて夫婦となつた。

しかし仲がよくなかつた。

アダムが、 『お前は、女だから、わしの云ふことに從はなくてはならぬ』

と云ふと、エル・カリネーはつんとして、

『いやですよ。そんなことは出來ませんよ』

と云つた。

『なぜだね』

『だつて、あなたもわたしも同じ土から出來たのでせう。

だからあなたはわたしに命令する權利なんかありませんわ』

エル・カリネーはかう云つて、どうしてもアダムの云ひつけに從はないので、�~が怒つて樂園から追 ひ出した。

エル・カリネーは、自分より先に樂園から追ひ出されたイブリスの許に訪ねて行つて、その妻となつた。

そして二人の間に澤山の惡魔が生れて、永久に人間の敵となつた。

エル・カリネーを追いのけた�~は、アダムのために新たに1人の女をこしらへることにした。

しかしア ダムと同じやうに土で造つては、また夫婦の仲が睦まじく行かぬと考へたので、今度はアダムを眠らせて、そのひまにアダムの肋骨を引きぬいて、それで女をこしらへた。

この女が即ちエバである。

二人は夫婦となつた。

エバはよくアダムの云ふことを聞いたので、二人は樂園の中で樂しい月日を送ることが出來た。

それを見たイブリスは、

『よし、おれが邪魔をしてやるぞ』

と云つて、そつと樂園に忍び込んだ。

『うかうかしてゐて、�~に見つかると大事だ。

どこにか身を隠すところはないか知ら』

イブリスはかう思つて、あたりを見廽すと、一匹の蛇が目についた。

『うん、いい隱家が見つかつた』

イブリスはかう云つて、忽ち姿を小さくして、蛇の牙にあいてゐる空洞に入り込んだ。

そして蛇の口を借りて、うまくエバに取り入つて、

『エバさん、樂園にある小麥を食べてごらん』 と勸めた。

エバは驚いて、

『とんでもない。小麥は禁制の食物です。

�~さまから食べてはならぬと堅く申しつけられてゐるのです』

と云つた。

『そんなことを云はないで、まあ食べてごらん。

素敵においしんですよ』

と、蛇がしつこく勸めた。

エバもついその氣になつて食べて見ると、非常にいい味がするので、たうとう夫のアダムを說き伏せて之を食はせた。

�~はすぐにそれを知つた。

そしてアダムとエバとイブリスと蛇とを樂園から追い出した。

しかしアダムは樂園を出るときに、�~の目を盗んで、一つの鐵床と二本の火箸と二つの槌と一本の針とを持ち出した。

アダムは『後悔の門』から追い出され、エバは『哀憐の門』から迫ひ出され、イブリスは『呪いの門』 から追い出され、蛇は『災ひの門』から追い出された。

そしてアダムはセレンディブ (今日の錫蘭)に降り、エバはジダーに降り、イブリスはアカバーに降り、蛇は波斯のイスファハンに降つた。

かうしてアダムとエバとは永い間はなればなれになつて暮してゐたが、二百年たつてから、メ,ッカの近くに聳えてゐる『認めの山』アラファット山で、はしなくも再會することになつた。

アダムは樂園で犯した罪を心から悔いてゐたので、天使ガブリエルが可哀さうだと思つて、彼をアラ ファット山に導いて、エバを見出さしめたのであつた。

ノアの洪水

ノアは、イドリス(エノクのこと)の孫であつた。

イドリスは、人間のうちで始めてペンを使つた男である。

彼はペンを使つて、�~の啓示に關する書物を三十巻ほど書いた。

また天文學その他の科學についても、多くの書物を著したが、それ等の書物は、みな失くなつて、今日では一册も見るこ とが出來ぬ。

イドリスの孫であるノアは、書物こそ著さなかつたが、世界で最も偉いと讃へられた六人の豫言者の一 人であつた。

彼は妻のワイレーと一しよに、ダマスカスに住んでゐた。

あるとき、�~がノアのところに現れた。そして、

『人間どもが、�~を信じなくなつたから、大洪水を起して、これを罰するつもりぢや。

罰を受けるのが 恐ろしいとあれば、早く悔い改めるやうにしろ。

そなたは�~を信ずるによつて、命を助けることにする。

豫め箱舟を造つて置くがいい』

と戒めた。

ノアは非常に驚き恐れて、すぐに人々を集めて、

『早く心を入れかへて�~さまを信ずるがいい。

さうでないとひどい罰が當るよ』

と云つた。

しかし人々はこれを聞くと、

『何を云つてゐるのだい』。

『くだらぬことを喋ると、ひどい目にあはせてやるぞ』

と、口々に嘲り罵つたばかりでなく、果ては寄つてたかつて、散々にノアを擲りつけた。

他人がこうであつたばかりではない。

ノアの家族のものもみな心のねじけたものばかりで、いづれも�~をないがしろにしてゐた。

ノアの妻のワイレー、その子のカナーン、カナーンの子のオグなど、みなノアの言葉を笑ひ罵つて、

『うちの人は氣狂だよ』

と、人々に云ひふらしてゐた。

ノアは、悲しみ嘆きながら、せつせと箱舟をこしらへてゐた。

箱舟が出来上つた頃、ダマスカスの地下にあつた一つの竈から、突然水が噴き出した。

水は凄じい勢で大地に溢れ、見る見る草木を沈め、岡を沒 して來た。

ノアは、ワイレー、カナーン、オグなどを除いて、信心深い親類や知合などと一しよに箱舟に乘り込ん だ。

ノアは�~の�ﾍへに從つて、いろんな動物を戴せてやることにした。

ノアが驢馬を箱舟に入れようとしてゐると、魔王のイブリスが蠅に姿を變へて、その尻尾の下に濳みかくれた。

驢馬は魔王を舟の中に連れこんでは、ノアやその他の信者たちに申譯がないと思つたので、懸命に頑張つて、どうしても箱舟に入らうとしない。

かくとも知らぬノアは、

『こいつ、馬鹿な奴だな』

と叫んで、散々に擲りつけて、やつと舟の中に追い込んだ。

�~は驢馬の不幸を氣の毒に思つて、

『汝の子孫まさに天國に入るべし』

と云つた。

後になつてオザイル(エレミアのこと)の驢馬が、樂園に入ることになつたのは、これがためである。

洪水はだんだんとひどくなつた。

それがために、�~を信じない人間どもは、盡く溺死んでしまつた。

ただノアの箱舟に乘り込んだものと、巨人のオグだけが助かつただけである。

箱舟は漫々たる水の上をあちらこちらに流されて、たうとう今日のメッカの地まで漂つて來て、そこに七日が間ぢつと留つてゐた。

それから再び動き出して、ゼルサレムの地に着くと、箱舟は�~の力によつて、俄かに言葉を發して、

『ノアよ、この地に聖殿を建てて、豫言者並びに汝の子孫これを護るべし』

と告げた。

ノアはそのお告げの通りにすることにした。

彼は洪水がすつか退いてしまふのを待つて、ゼルサレムに聖殿を建てて、他の人たちと一しよに之を護つた。

ノアには、一人の娘があつた。

娘は、不信心な母のワイレーが溺死んだので、かの女に代つて、家のことを世話しなくてはならなかつた。

娘は妻や息子を失つたノアの身の上を氣の毒に思つて、一生懸命に家事にいそしんでゐた。

と、ある日一人の男が、ノアを訪ねて來て、

『あなたの娘さんをお嫁にいただきたい』

と申し込んだ。

『娘にふさはしいやうな家をこしらへることが出來たら、差上げることにしよう』

と、ノアが答へた。

男はその條件を承知して、豫め日數を約束して歸つて行つた。

しかし約束の日がきれても、男はやつて來なかつたので、ノアは同じ條件で他の男に娘を嫁がせることにした。

ところがこの男も定めた日までに訪ねて來なかつたので、ノアは更に他の男に娘をやるといふ約束してしまつた。

三番目の男は、約束通りに家をこしらへ上げた。

そこでノアはいよいよその男と娘とを結婚させることにした。

婚姻の式が濟むと、若夫婦はノアに別れを告げて、新たに設けられた家に出かけて行つた。

と、すぐそのあとに、二番目の男が訪ねて來て、

『家が出来上りましたから、娘さんをいただきたい』

と云つた。

約束の日がきれたと云つて刎ねつければ何でもないが、ノアは男を落膽させるのが氣の毒だと思つて、�~の名を呼んで、一匹の驢馬を娘そつくりの姿に変えて、

『さあ、わしの娘を受取つておくれ』

と云つた。

男は喜んでその乙女をつれて歸つて行つた。

それから間もなく、最初の男がやつて來て、同じく、

『家が出来上りましたから、娘さんをいただきたい』

と云つた。

ノアは仕方がないので、一匹の牡狗を娘そのままの姿になしてこれに與へることにした。

かうして世界に三通りの女があるやうになつた。

第一種の女は、ノアの娘の子孫で、�~を敬い、眞心こめて自分の夫を助ける。

第二種の女は、驢馬の子孫で、愚かな怠惰者ばかりである。

第三種の女は、狗の子孫で、無暗にすばしこくて、利口ぶつて、いつも夫に口答へばかりするのであつた。

イブラヒムとニムルード王

クーサの王者ニムルードは、生れつき非常に尊大で傲慢で、�~などは夢にも信じなかつた。

彼は口癖のやうに、人民たちに對つて、

『�~を信ずる馬鹿者があるか。わしを�~として崇め敬ふがいい』

と云つてゐた。

ある時二ムルードは、不思議な夢を見た。

氣にかかるので、すぐに占師を呼び出して、その夢を占はせると、占師は勿體ぶつた口調で、

『一大事でございます。

間もなく偉い豫言者が生れて、あなたさまが日頃尊んでいらつしゃる偶像をこはし、あなたさまの身の破滅を企てる前兆でございます』

と云つた。

これを聞くと、ニムルードはひどく心を痛めて、

『それは容易ならぬことぢや。

何とかしなくてはならぬ』

と云つて、すぐに國中の人々を呼び集めて、

『お前たちのうちで、男の赤坊を持つてゐるものは、すぐに殺してしまへ』

と云ひつけた。

人々はこれを聞くと、心から嘆き悲しんだが、いやだと云へば、この亂暴な王者からどんな酷い目にあはせられるかわからないので、泣く泣くその云ひつけに従つた。

ニムルードは、それでも安心が出來ぬといふので、家來たちに云ひつけて、產期に近づいた女を探し出しては、嚴しく見張らせて、男の子を產み落すや否や、盡く之を殺させることにしてゐた。

しかしニムルードがこんなに注意してゐたにも拘らず、夢はたうとう眞となつた。

アザルとい ふ男の妻が、誰も氣がつかない間に、男の子を產み落すことになつた。

かの女が產氣づくと、幾人かの天使がアザルの家に現れて、人知れずその妻を導いて、人里離れた洞穴の中につれ込んだ。

かの女は�~の惠みによつて、安々と男の子を產んだ。

そして體が丈夫になると、赤坊は天使の手にまかせて、自分だけ何事もなかつたやうな顔をして、家に歸つて來た。

アザルは、いつも ニムルードの側に出仕して、家にゐないことが多いので、永い間子供の產れたことを知らないでゐた。

彼の妻は、アザルの目を盗んで、二三日おきに洞穴を訪れるのであつたが、その度に子供がすくすくと大きくなるのに驚かされるのであつた。

ある日、かの女が洞穴の中に入つて行くと、子供は地面に座り込んで、さもうまさうに自分の手の指を甞めてゐた。

かの女は驚き怪しんで、

『坊や、どうしてそんなに指を甞めるの』

と云ひながら、子供の手をとつて見ると、一本の指から乳が湧き、 一本の指から蜜が流れ、一本の指から牛酪が現れ、一本の指から水が迸つてゐた。

かうして男の子は、健やかに美しく育つて行つた。

十五ケ月たつと、彼は立派に何事でも話すことが出來るやうになつた。

彼は智慧の鋭い兒であつた。

ある日母に對つて、

『お母さん、わたしの主は誰なの』

と尋ねた。

『それはわたしですよ』

と、母が答へた。

『では、お母さんの主は誰なの』

と、子供が尋ねた。

『それは、坊やのお父さんですよ』

と、母が答へた。

『ではお父さんの王は誰なの』

と、子供が尋ねた。

『それはニムルード王ですよ』

と、母が答へた。

『ではニムルード王の王は誰なの』

と、子供が尋ねた。

母は驚いて、子供の口のあたりを叩きながら、

『お默りなさい』

と叫んだ。

しかしわが子の賢いのが嬉しくて誇らしくてたまらないので、たうとう今までのことを夫のアザルに話してしまつた。

アザルは驚き喜んで、すぐに洞穴に駈けつけて來た。

そして子供に對つて、

『お前は、本當にわしの子かね』

と尋ねると、子供はあどけない口調で、

『ええ、さうなの』 と答へたかと思ふと、母を困らせたのと同じ質問をたてつづけにァザルにかけて、また口のまはりを叩かれた。

子供はイブラヒムといふ名を與へられた。

ある夕方のことであつた。

イブラヒムが洞穴から出て見たいと云い出したので、外へつれて出ると、始めて世界を見たイブラヒムは、�~の手になる創造の奇しき業に心から驚いて

『わたしを造り、わたしを育て、わたしのためにあらゆるものを與へ給うたお方こそ、わたしの主なれ。

その他のものはわたしの主にあらず』

と云つた。

そして空を仰ぐと、一つの星が夕空に燦めいてゐたので、

『おお、確かにあれがわたしの主よ』

と叫んだ。

しかし星は、イブラヒムが熱心に見つめてゐるうちに、次第に西に傾いて、たうとう見えなく なつてしまつた。

と、イブラヒムは、呟くやうに、

『わたしは、變つて行くものを好まない。

あれはわたしの主であることは出來ぬ』

と云つた。

さうしてゐるうちに、滿月が空にのぼつて、柔かな光をあたりに浴せかけた。

イブラヒムは月を見つめながら

『これこそ確かにわたしの主よ』

と云つた。

そして夜通し月を眺めてゐると、やがて月は西に沈んでしまつた。

イブラヒムは非常に心を痛めて、

『わたしが間違つてゐた。

月はわたしの主ではなかつた。

わたしは、變つて行くものを好まないから』

と云つた。

やがて東が赤らんで、太陽が輝やかしい光と共に現れて来た。

イブラヒムは喜んで、

『これこそ確かにわたしの主よ』

と叫んだ。

しかし時がたつにつれて、太陽もまた西に傾き始めて、ものみなが長い影を地に落すやうになつたと思ふと、やがて眞黒い夜がやつて來た。

イブラヒムはがつかりして、

『わたしはまた考へちがひをしてゐた。

星も月も太陽も、わたしの主ではない。

わたしは、變つて行くものを好まないから』

と云つた。

そして苦しみ悩みながら、

『おお、偉大にして變らざるものよ、願くばその御姿を御身の僕に示して給はれ。

僕を導いて、誤より救ひ給へ』

と祈つた。

�~はイブラヒムの祈を聞き入れて、大天使ガブリエルを遣つて、彼に眞理を�ﾍへさせた。

イブラヒムは十歳になると、方々を歩き廽つて、人々に、

『偶像を敬つてはならぬ。

敬ふべきものはただ�~だけである』

と�ﾍへた。

ある日イブラヒムが、とある寺院の中に入つて見ると、澤山の偶像がずらりと立ち並んでゐた。

イブラヒムは手に持つてゐた斧をふり上げて、片端からそれを叩きこはした。

そして一番大きな偶像を一つだけ殘して、その膝に斧を載せて立ち去つた。

暫くすると、お坊さんたちがやつて來た。

そして澤山の偶像が無殘に叩きこはされてゐるのを見ると、のけぞるほど驚いて、大騒ぎをしてゐるうちに、イブラヒムの姿を見つけて、

『お前だらう、こんな大それたことをしたのは』

と詰つた。

イブラヒムは平氣な顔をして、

『いや、その偶像たちが、お互ひに喧嘩をしたんですよ。

そして一番大きな偶像が、自分のことを悪く云つたものを斧で叩きこはしたんですよ』

と答へた。

これを聞くと、お坊さんたちは目を怒らして、

『馬鹿なことを云へ。

そんなことが出来るのか』

と罵つた。

と、イブラヒムはにやりと笑つて、

『それくらゐのことも出來ぬやうでは、�~さまではないではありませんか。

あなた達は、自分の口から、偶像が�~でないことを證據立ててくれましたね』

と云つた。

坊さんたちは、ぐつと詰つてしまつたが、あまりの口惜しさに、すぐにそのことをニムルード王に訴へた。

ニムルードは非常に怒つて、大きな爐をこしらへさせて、その中に盛んに火を燃やさせた。

火が炎々と 燃え立つと、ニムルードは大きな聲で、家来たちに、

『その若僧を火の中に投り込め』

と云ひつけた。

家来たちはすぐにイブラヒムを引き立てたが、あまり火が强く燃えてゐるので、熱くて近寄れなかつた。

家來たちが途方に暮れてゐると、魔王イブリスが忽然と姿を現して、

『わしがいいことを�ﾍへてやる』

と云つて、立ろに一つの機械を拵へてくれた。

家來たちは、その機械でイブラヒムの手足をひしひしと縛り上げて、猛火の中に投げ込んだ。

ニムルードは、イブラヒムが今に黒焦 なつてしまふと思つて、にやりと微笑んだ。

しかし�~の助けによつて、爐の中は、泉に濕ほされた薔薇の園のやうに氣持がよかつた。

イブラヒムは暫らくそこに坐り込んでゐたあとで、のこのこと出て來た。

ニムルードは驚き怪しんで、

『どうしたのぢや。

どうして助かつたのらや』

と尋ねた。

『�~の力によつて』

と、イブラヒムが靜かに答えた。

ニムルードはますます驚いて、

『そんなに偉いものが世の中にあるのか。

よろしい、わしはお前が信ずる�~を、わしの目で親しく見るか、それともその�~を殺すかしなくてはならぬ』

と叫んだ。

ニムルードは、すぐに高い高い塔を築かせることにした。

大空まで塔を築き上げて、その上から天國にゐる�~を見ようといふ考へである。

工事はどんどんはかどつた。

やがて塔は七十階に達した。

そして一階の高さは、おのおの十五丈餘であつた。

�~は、塔がだんだんと大空に近づいて来るのを見ると、工事に働いてゐる職人たちの言葉をかき亂してしまつた。

職人たちはめいめい勝手な言葉を話すやうになつて、同じ時に同じ場所で七十三の異つた言葉が現れた。

職人たちはお互ひに何を云つてゐるやらわからなくなつて、たうとう仕事を止めてしまつた。

だからこの塔をバベル(『混亂』の義)の塔といふのである。

『塔を大空まで築き上げるといふ企が失敗したので、ニムルードは、今度は一つの飛行機を工夫した。

それは簡單な仕掛けではあつたが、なかなか思ひつきがよかつた。

大きな箱の四隅に、おのおの一羽の逞 しい鷲を縛りつけて、箱の眞中に一本の棒を立てて、その棒の先に生肉の大きな片をくくりつけた。

支度が出來ると、ニムルードは一人の射手と一しよに箱の中に乘り込んだ。

四羽の鷲は、肉を目がけて飛び立つたが、脚をしばられてゐるので、いくら飛んでも肉には届かぬ。

それでもやはり飛びつづけてゐるので、 箱は大地を離れて、次第に空中に浮び上つた。

大地が殆ど見えなくなるくらゐ高く昇つたとき、ニムルードは、家來に對つて、

『さあ、用意して來た矢を弓に射上げてくれ。

あらん限りの矢を射上げるのだぞ』

と云つた。

弓の矢には、あらかじめ血潮を塗つてあつた。

家來は、紅に染まつた矢を一本また一本と取り上げて、天に向けて射放つた。

矢だねが盡きると、ニムルードが、

『それでよし。

もう降るのぢや。

棒をつけかへろ』

と云つた。

家來は、箱の上に立ててあつた棒を引き抜いて、箱の底に逆まにつき刺した。

鷲どもは、それを見て、また棒の先の生肉目がけて飛び立ち始めたので、箱はだんだんと下にくだつて、やがて大地に着いた。

ニムルード王が歸つて來るのを待ち受けてゐた家来たちは、口を揃へて、

『いかがでございました。

天國にお着きになりましたか』

と、熱心に尋ねた。

ニムルードは何食はぬ顔をして、

『着いたとも。

お前たちは、血に染まつた弓の矢を見なかつたかね』

と云つた。

『はい、血に染まつた矢が幾本となく空から墜ちてきましたので、いかが致したかと心配してゐた次第でございます』

と、家來たちが答へた。

ニムルードはさも得意さうな顔をして、

『さうであらう。

わしが天國に着いて、イブラヒムが大切にしてゐる�~とかいふ奴を射殺したのぢや。

これでわしが本當の�~であるといふことがわかつたのであらう』

と云つた。

家来たちは、イブラヒムが平氣で猛火の中から出て來たのを見て、ニムルードが�~であるといふことを疑い始めてゐたところであつたが、かう聞くと、またすつかりニムルードを信じてしまつて、

『それでは、やはりニムルードさまが本當の�~であつたな』

『さうとも、さうとも。

弓の矢にかかつて死ぬやうなものは、決して�~ではない。

イブラヒムの奴の云ふことは、ほんの譫言だ』

と囁き合つた。

これを耳にしたニムルードはもう大得意であつた。

しかし�~は、ニムルードの傲りたかぶつた心を憎んで、空から一匹の蚋を大地に降した。

蚋はニムルードの側に飛んで來て、王の鼻の孔に入つたかと思ふと、 次第に奥の方に這ひ込んで、たうとうのう腦の中にもぐり込んだ。

腦味噌を蚋に刺されてはたまつたものではない。

二ムルードは、夜となく晝となく苦しみ狂つた。

あまり苦しいので、氣狂のやうになつて、一人の男に云ひつけて、鐵の槌で絶えず自分の頭を擲らせてゐた。

ニムルードは、ますますイブラヒムが憎くなつて、どうにかして彼を殺さうとしたが、�~に助けられてゐるので、何とも手のつけようがなかつた。

それを見て、人々は次第にニムルードから離れて、イブラヒームの說くところに耳を傾けるやうになつた。

ニムルードはたまりかねて、たうとうイブラヒムを國の外に逐ひ拂ふことにした。

しかし暫くすると、

『いや、遂ひ拂つては、却つてためにならぬ。

あくまで引つ捕へて置かなくてはならぬ』

と思ひ返して、一隊の兵士にそのあとを追つかけさせた。

兵士たちは、騾馬に跨つて、イブラヒムのあとを追うた。

イブラヒムは驢馬に乘つて、國を出たが、うしろから大勢の兵士たちが追つかけて來てゐるのを見ると、 驢馬の背から飛び降りて、一生懸命に駈け出した。

暫くの間駈けつづけてゐると、一群の山羊に出會つた。

イブラヒムは山羊どもに對つて、

『お頼みぢや、どうかわしを護つておくれ』

と頼んだ。

しかし山羊どもは頭をふつて、

『いやです、そんなことは出來ません』

.と云つたので、イブラヒムはまた一散に駆け出した。

暫くすると、一群の羊に出會つた。

イブラヒムは、羊どもに對つて、

『お頼みぢや、どうかわしを護つておくれ』

と頼んだ。

羊どもは、

『よろしい、かくまつて上げませう』

と云つて、イブラヒムを地面に腹這ひになして、そのまはりにぞろぞろと集つてゐたので、兵士たちは、目ざす男がそこにゐることに氣がつかないで、そのまま通り過ぎてしまつた。

�~は、山羊がイブラヒムの頼みを聞き入れなかつた罰として、短かくて醜い尻尾を與へた。

それから驢馬も、イブラヒムを燒き殺すための薪を運んだり、兵士を乘せて彼を追つかけたりした罰として、子を產 まないやうになされてしまつた。

それに反して羊はイブラヒムの願を聞き入れて、こころよくかくまつてくれたといふので、その褒美に幅が廣くて見事な尻尾を授かつた。

だから今日でも東の國の羊は、立派な尾を持つてゐるのである。

それからニムルード王は、蚋のために二百年が間悩まされつづけて、たうとう惨めな最期を遂げてしまつた。

�~の試みと魔の手

ニムルード王の追手を通れたイブラヒムは、埃及に行き、更にメッカに渡つて、そこで�~から聖殿をこ しらへるやうに命ぜられた。

聖殿が出來上ると、�~は、イブラヒムに對つて 『そなたの息子イスマインをアラファット山で犧牲にささげよ』 と云つた。

イブラヒムは心からイスマインを愛してゐたので、この言葉は、非常につらかつた。

しかしどこまでも�~を信ずる彼は、謹しんでこれに從ふことに決心した。

これを知つた魔王イブリスは、イブラヒムの妻の前にその姿を現して、

『いかに�~の云ひつけとはいへ、愛するわが子を犧牲にするとは、氣狂沙汰ではないか。

早くイブラヒムを說きつけて、止めさせるがいい』

と、言葉巧みに說き伏せようとした。

魔王はかうしてイブラヒム夫婦の仲を裂かうとしたのであつた。

しかしイブラヒムの妻は、イブリスの誘ひの手にのらなかつた。

かの女はイブリスを睨みつけて、

『わたしたちのすることに口を出さないで下さい』

と叫んだ。

魔士はにやりと笑つて、猶も說き立てようとすると、かの女はいきなり大きな石を抱へ上げて、 イブリス目がけて、發矢と投げつけた。

イブリスは素早く身をかはしたので、その體には當らなかつたが、 かの女の權幕に驚いて、どこともなく消え失せてしまつた。

イブラヒムは、わが子イスマインを連れて、とぼとぼとアラファット山に登つてゐると、どこからとなく、 �~の聲がして、

『そなたの信仰の篤いことは、これでよくわかつた。

息子を殺すことは止めるがいい』

と云つた。

イブラヒムは、息子のかはりに羊を犧牲にささげて、感謝の念に滿ちて、山を降つた。

生命の樹の枝

人類の始祖アダムにも、死ぬ時が來た。

死にかけたアダムは、自分の體がそのままこの世界から消えてなくなるかと思ふと、恐ろしさに身ぶるひした。

そしていろいろと考へた末に、わが子のセスを呼んで、

『お前、すぐに樂園に行つて、生命の樹の實を貰つて來ておくれ』

と云ひつけた。

セスは云ひつけられた通りに、樂園に行つて、その門を嚴しく守つてゐる天使に對つて、

『わたくしの父アダムが死にかけてゐます。

どうか生命の木の實をお授け下さい。

ただの一つでよろしうございますから』

と云つた。

これを聞くと、天使は頭をふつて、

『氣の毒ぢやが、そなたの願いを許すわけに行かぬ。

生命の木の實は、人間の口にするものではないといふことを、嚴しく�~から云ひ聞かされてゐるのだから』

と答へた。

しかしせスが、その言葉にひどく力を落したのを見ると、可哀さうになつたので、�~のお許しを得て、生命の樹から一枝折り取つて、それをセスに與へた。

その枝には木の實はなつてゐなかつたが、 それでもセスは大喜びで、飛ぶやうに駈けもどつた。

しかしアダムはもう息がきれて冷たくなつてゐた。

セメは足ずりして嘆き悲しんだが、いくら泣いても仕方がないので、アダムをねんごろに葬つて、その墓の上に生命の樹の枝をさした。

樹の枝はやがて根を出して、��々と生ひ茂つた。

そしてノアの洪水のと きにも枯れなかつた。

ロトの妻が、�~の罰を受けて、岩盤の柱となつてしまつたとき、ロトは非常に嘆き悲しんで、自分も自殺しようとしてゐた。

すると、忽然と一人の天使が現れて來て、

『�~のお告げぢや。

ヨルダン河の水を一つの瓶に酌みとつて、アダムの墓に訪ねて行くがいい。

墓の上には一本の小さい樹が生えてゐる。

その樹に持つて行つた水を灌ぐのぢや。

もしその爲めに樹が勢よく榮えるやうになつたら、人間全體にとつての得難い恩惠ぢゃ』

と云つた。

これを聞くと、ロトは喜び勇んで、ヨルダン河の水を一つの瓶に滿して出かけた。

その日は恐ろしく暑い日であつた。

そして沙漠を渡る熱風が、ものみなをからからにしてゐた。

ロトは瓶を抱えたまま、全身に汗を流して、とぼとぼと嶮しい坂路を登つて行つた。

と、路端に一人の巡禮者が倒れて、死にさうに悶え苦しんでゐた。

親切なロトは氣の毒でたまらなくなつて、その側に跪いて、

『ひどく苦しさうですね。

さあこの水を少し飲んでごらんなさい。

そしたら元氣が出るでせう』

と云つた。

巡禮者はこれを聞くと、さも嬉しさうに瓶に口をつけたが、見る間に瓶一ぱいの水をすつかり飲みほしてしまつた。

巡禮者は、魔王がかりに人間の姿をしてゐるのであつた。

彼はロトのすることを邪魔しようとしてゐるのであつた。

ロトは瓶の水を飲み盡されて、驚き呆れたが、すぐに立ち上つて、疲れた足をひきずるやうにして、ヨルダン河のほとりに取つて返した。

そして再び瓶一ばいに水を滿して、永い旅に出かけると、また一人の巡禮者に欺されて、すつかり水を飲まれてしまつた。

そんなことが三度つづいたので、さすがのロトも大地に身を投げて、呻くやうに、

『路に苦しんでゐるものを助けないと、自分の罪が重くなるばかりである。

が、助けることにすると、 アダムの墓の樹に水を灌ぐことが出来ぬ。

おお、�~さま、わたくしはどうしたらいいのでございませう』

と云ひつづけてゐた。

そのうちに、ロトは勞れと悲しみとにへとへとになつて、大地に��になつたまま、眠りに落ちて しまつ た。

と、夢に天使が現れて、

『そなたが、苦しむ巡禮者と思つてゐるのは、悪魔のかりの姿ぢや。

そなたの親切な心根は、�~もよく御存じで、そのためにそなたの罪はことごとく免されたのぢや』

と云つた。

ロトは夢の中で、

『でも、わたくしはまだアダムの墓の樹に水を濯ぐことが出來ないでゐます』

と、苦しさうに云つた。

と、天使は、彼を慰めるやうに、

『それも安心するがいい。

天使たちがそなたに代つて、水を灑いでくれたのぢや』

と云つた。

これを聞くとロトは非常に喜んで、安らかに死んで行つた。

アダムの墓の樹は、天使に水を灌がれて、勢よくすくすくと生い茂つて行つた。

魔王はそれが癪にさはつて仕方がないので、

『どうにかしてあの樹を臺なしにしなくては、おれの胸がをさまらぬぞ』

と云つて、頻りにいい機會を窺つてゐた』

ソロモン王の時代になつて、大きな�~殿を造ることになつた。

それと知つた魔王は、

『よし、いよいよあの樹を倒す時節が到来した』

と、すぐにヒラムといふ建築師のところに出かけて行つて、

『お前は、今度素晴しい�~殿を建てることになつたさうだが、その建築には、是非アダムの墓に生えてゐる樹を使はなくてはならないよ』

と云つた。

ヒラムは驚き恐れて、

『とんでもない。あの樹は樂園に生えてゐる生命の樹の枝から大きくなつたものですぞ。

あんな大切な樹を切り倒してどうするのです』

と語つた。

『いや、そんな大切な樹だからこそ、今度のやうなときに使はなくてはならないのだ。

�~殿の建築に役立つたら、�~のさぞ滿足されることであらう。

何と、さうではないか』

と、魔王は言葉巧みにヒラムを說きつけた。

ヒラムはたうとうその口車にのつて、人夫たちに云ひつけて、アダムの墓の樹を伐り倒させた。

人夫たちはそれを伐り倒して、大騒ぎをしてゼルサレムに運んで来た。

しかしヒラムがよくそれを見る と、とても�~殿の建造に使へさうではなかつた。

彼は始めて魔王に欺されたことに氣がついて、心苦しさのあまりその樹をゼルサレムの東にある豁に投げ込ませた。

樹はそこに長々と��たはつて、ケドロンの急流を越える橋となつた。

それから暫くたつて、シバの女王ベルキスが、ソロモン王を訪ねることになつた。

かの女はケドロンの急流にやつて來て、橋を渡りかけた。

途端に�~の聲がして、

『橋に足をかけるな。

それは生命の樹の枝の大きくなつたものぢや』

と云つた。

これを聞くと、ベルキスはあまりの畏さに、橋のそばに跪いて、うやうやしく禮拜した。

女王を迎へに出てゐたソロモン王は驚き怪しんで、

『どうなされた。

なぜ橋をお渡りにならぬ?』

と尋ねた。

ベルキスは橋を指して、

『この樹は、アダムの樹でございます。

樂園に生えてゐる生命の樹の枝の生ひ立つたものでございます』

と話した。

ソロモン王はこれを聞くと、非常に驚き畏れて、すぐに家來たちに云ひつけて、綺麗にその樹を洗ひ浄めさせた。

そして�~殿の寶蔵に大切にしまつた。

基督が殺されるときに、十字架となつたのは實にこの樹であつた。

かうしてこの樹は、�~が�ﾍへたやうに、人間全體の大きな恩惠となつたのであつた。

基督にうつ釘

或る時聖母マリアが、岩洞の中でお祈りをしてゐると、雷の轟く音がして、電光がさつと眼を射つた。

マリアは驚いて外を覗き出すと、大空はどこもかしこも眞黒くなつてゐて、星くづは姿を隠し、月は血に染んだやうな色をしてゐた。

マリアは驚き怪しんで、左を見たり右を眺めたりしてゐると、聖ジョンが涙を流しながらやつて來た。

彼の手にしてゐる手巾には、血の痕が點々と滲んでゐた。

マリアはびつくりして、

『ジョンよ、そなたはどうしてお泣きかえ。

そなたの主がそなたを擲りつけたのかえ、

それとも詩篇を 失くしたのかえ』

と尋ねた。

『いや、主に打たれたのでも、詩篇を失くしたのでもございません』

と、聖ジョンが答へた。

『それではどうしたのかえ。

早く話したらいいだらう』

と、マリアが云つた。

『わたくしには、お話しする口も舌も無いやうな氣がいたします。

お話し致したら、あなた樣の心臓がこはれてしまひませう』

と、聖ジョンが答へた。

『まあ、氣がかりな。

わたしの心臓がどうならうと、早く話しておくれな』

と、マリアが熱心に促した。

『邪な猶太人たちが、主を捕へました。

さながら盗人のやうに主を捕へて、さながら人殺しのやうに、連れ去つてゐます』

と、聖ジョンが、悲しくて口惜しくてたまらぬやうに語つた。

これを聞くと、マリアは忽ち大地に倒れて、氣を失つてしまつた。

聖ジョンやその他の人々は、大騒ぎをして、瓶の水をマリアの顔にそそぎかけて、さ まざまに介抱してゐた。

暫くすると、マリアはやつと息を吹き返して、

『基督を愛し崇むるものは、みんなわたしについて來ておくれ。

わたしは、あの子が殺されないうちに、是非とも見つけ出さねばならぬ』

と云ふなり、洞穴から駈け出した。

基督を愛し、基督を讃ゆるものは、われもわれもとマリアに從ふことになつた。

マリアの先に立つて步くものが五千人、マリアのあとについて行くものが四千人、さながら長蛇のやうに連なつて、ひたすら路を急いだ。

マリアは途中で、釘製造人の家の戶口を通つた。

彼は一生懸命になつて釘をこしらへてゐた。

マリアは 彼に對つて、

『今日は、釘製造人さん。

そなたは何をしてゐるのです』

と尋ねた。

『猶太人たちが釘を注文しましたので、それをこしらへてゐるところです。

猶太人たちは四本でいいと云ひましたが、わたしは五本造つてゐます』

と、釘製造人が答へた。

『その釘は何に使ふのです』

と、マリアが尋ねた。

『基督の體にうち込むのです。

二本は手に、二本は足にね。

そして残りの一本、一番鋭く尖つてゐる奴は、肺の臓にうち込むのです』

と、釘製造人が答へた。

これを聞くと、マリアは、氣が狂つたやうに、

『おお、何といふことでせう』 と呼ぶなり、ばたりと大地に倒れて、再び氣を失つてしまつた。

人々は驚き騒いで、瓶の水をどんどんマ リアの體にそそぎかけた。

さうしてゐるうちに、マリアはやつと正氣づいて、

『おお、この男に呪あれ、汝の工場に鐵滓ある勿れ。

汝のバン皿にバンある勿れ。

汝の肌着にボタンある勿れと、釘製造人を呪うた。

そしてこの呪はやがて實現して、無情な釘製造人は死ぬまで苦しみ惱まねばなら なかつた。

さまよへる猶太人(その一)

司祭の長と民の長老とが語らひあつて、イエスを縛り上げて、方伯ポンテオ・ビラトの許にひつばつて行つた。

ピラトは、イエスを縛して來た猶太人たちに對つて、

『わしにこのイエスをどうしろと云ふのぢや』

と云つた。

『十字架におかけ下さい』

と、猶太人たちが叫んだ。

『十字架にかけろと云ふのかね。

一體イエスはどんな悪いことをしたのぢや』

と尋ねた。

猶太人たちは、イエスの罪をあげかねて、ただますます喧しく、

『十字架にかけよ、十字架に』

と叫ぶだけであつた。

ピラトはイエスに罪がないと見て、猶太人たちに、

『イエスを返すから、そなた達自らそなた達の掟によつて裁いたらいいだらう』

と云つた。

しかし猶太人の叫聲がいよいよ烈しくなつたので、愚かな、心の弱いピラトはたうとうイエスを十字架にかけよと云ひつけてしまつた。

イエスは、重たい十字架を背負つたまま、處刑場へ引かれて行つた。

途中で彼は、靴製造人の家の前を通り過ぎた。

靴製造人は、家のものに聲をかけて、

『おい、みんな出て來い。

イエスが處刑場にひかれてゐるよ。

みんな早く來て、イエスがどんな男であるか、とくと見て置くがいい』

と叫んだ。

これを聞くと、家中のものが、どやどやと表に馳け出して來た。

靴製造人は、小さい子供を抱 き上げて、戶口のところに立つてゐた。

猶太人たちは、得意さうな顔をして、イエスを引つぱつて行く。

十字架の重みにあえぎ苦しんでゐるイエスは、靴製造人の家の戶口の前に來ると、そこに立ちどまつて、暫く體を休めようとした。

靴製造人は、それを見ると、聲を荒くして、

『そんなところに立ちどまつてもらつては困る、とつとと行つてもらはう』

と云つた。

イエスは彼の顔を見上げて、

『ほんの暫くです。

休ましておくれ』

と願つた。

しかし靴製造人は、仲間の猶太人の機嫌をとりたかつたので、イエスの言葉を聞くと、赫と腹を立てて、

『行けと云つたら、行かぬか』

と怒鳴りつけた。

イエスは、その言葉に従つて、また歩き出したが、きつと靴製造人の方をふり向いて、

『わしはこれから靜かに休むことになるが、そなたは最後の審判の日まで歩きつづけなくてはならぬぞ』

と云つた。

これを聞くと、靴製造人は何となく體中がうち顫ふやうな氣がして、抱いてゐた子供を下におろして、ふらふらとイエスのあとについて歩き出した。

彼は處刑場までついて行つて、イエスの無惨な最後を目にした。

と、忽ち彼の心は狂うたやうになつて、二度とゼルサレムに引き返すことも出来ず、妻や子の顔を見ることも出來ないで、ふらふらとさまよひ出した。

彼は悲しみに滿ちた巡禮者のやうに、國から國へと步き廽つた。

しかしいくら歩き廽つても、心のやすらひを得ることが出來ないで、彼は最後の審判の日まで世界中を うろつき廽らねばならぬ。

註　この傳說は、パレスチンその他の東方だけではなく、歐羅巴諸國に廣く語り傳へられてゐる。從つてさまざまの類話が存してゐる。次にその一例を擧げて置かう。

さまよへる猶太人(その二)

ビラトがイエスを十字架にかける由を申し渡すと、訴へ出た猶太人たちは、意氣揚々としてイエスをピラトの廣間から引つぱり出した。

と、戸口のところに立つてゐた門番のカルタフィラスといふ男がいきなり手をあげて、イエスの背を擲りつけながら、

『早く行け、イエス。

早く行け。

何をぐづぐづしてゐるのか』

と云つて嘲り笑つた。

するとイエスはふり返つて、嚴しい顔付でカルタフィラスを見つめながら、

『行つてゐるよ。

そしてそなたはわしが歸つて来るまで待つてゐるだらう』

と云つた。

その言葉の通りに、カルタフィラスは、イエスが歸つて來るまで、いつまで生きながらへて待つてゐな くてはならなくなつた。

イエスが十字架にかかつたとき、カルタフィラスは丁度三十歳であつた。

そしてだんだんと年をとつて、百歳になる毎に若返つて、再び三十歳になる。

かうして彼は苦しみ悩みながら、いつまでもいつまでも生きてゐなくてはならぬ。

イエスが死んで、カトリック�ﾍが盛んになつたとき、カルタフィラスはアナニアスから洗禮を受けて、ヨセフと名のるやうになつた。

ヨセフは、アルメニアやその他の東の國に住んでゐて、いつも僧正たちの中にまじつて、つつましやかに日を送つてゐる。

彼は、至つて無口で、愼深く振舞つてゐる。

僧正たちや、その他信心深い人たちは、ヨセフが基督の時代から生きつづけて、いろんな出來事を見てゐるのを知つて、

『主の十字架の上での惱みを話しておくれ』

と云ふものもあれば、

『主は、どんな樣子で復活せられたのぢや。

それを篤と承りたい』

と云ふものもあつた。

その場合ヨセフは、日頃の沈默を破つて、ぽつりぽつりと話し出すのであるが、決して笑つたり浮々した氣持になつたりすることはなかつた。

ヨセフは、基督の言葉に従つて、心靜かに最後の審判の日を待つてゐる。

そしてその日が來たときに、イエスが猶も彼に對して怒りつづけてゐることを心から恐れてゐる。

ヨセフの噂が四方に傳はると、世界中の人々が彼のもとに訪ねて來て、宗�ﾍ上の疑いについて、いろん な質問をするやうになつた。

そんなとき、ヨセフは對手が信心深い人であるといふことを見抜くと、いつものつつましやかな態度で、親切にその疑いを解いてくれるのであつた。

人々が喜んで、いろんなものを彼に贈らうとすると、彼はいつも、

『いや、そんなものをいただいては相濟みません』

と云つて、どうしても受取らなかつた。

そしてほんの少しばかりの食物と、粗末な着物とで心から滿足してゐた。

彼は、自分が無知であつたために、救世主の人となりを見ぬくことが出來ないで、とんだ罪を犯してしまつたことをよく知つてゐる。

しかし同時にイエスが、おのれの敵に苦しめられながらも、彼等のために�~に祈つて、

『父よ、彼等を宥し給へ。

彼等は自ら何を為すかを知らざればなり』

と云つたことも知つてゐる。

だから最後の審判の日が來たら、自分の罪も無智から来たといふわけで、多分宥されるであらうと、そればかりをたよりにして、永い永いその一生を送りつづけてゐる。

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