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コーラン經の後に書す |
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一 |
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基督紀元五七一年若しくは五七〇年に亞剌比亞漠域の西南涯メッカに呱々の聲を舉げし一嬰兒あり。 |
時、西洋にては東羅馬皇帝ユスチニアヌスの殂後數年、東方にては陳の宣帝の太建の初年、わが朝にては欽明天皇の末年に當り、 |
四十餘年の後この嬰兒が天降の光熖を欺く大豫言者たらんとは其至親すら尙且豫期せざりし所、 |
況や百餘年にしてその靈誥聖ヘ東は葱嶺を度りて禹域に入り西はジブラルタルを渡りて歐西を化せんとは、東羅馬波斯フランクゥ國も楊隋李唐の列皇も夢想にだも及ばざりき、 |
否とよ千三百年後の現時に起倒興癈幾百千轉の人世の波瀾を經て尙巍然として大聖釋迦~子基督の東西兩ヘと鼎足の勢を宇內に張らんとは、洵に其唯一天~ならで誰かは知りたらん。 |
其人は誰そ、麻訶末、其ヘは何そ、イスラム、其聖典は一部のコーラン經是なり。 |
メッカに天降靈塵異のK石を祀れる方廟あり。 |
メッカの君にして世々方廟の守護者たる孤列族のハシェム家の一雄アブドル・モタㇽレブの子アブダㇽラ、アミナを娶りて一子を生ましむ。麻訶末なり。 |
アミナの孕むや身光を發してボストラの宮を照らすと夢みしにぞ、アブドル・モタㇽレブ以て瑞兆と爲し、生兒をムハメットと名くとは、靈異の說なり。ムハメットは光榮の義なり。 |
或はいふ、ムハメットとは豫言救世主の義にして、猶耶蘇の基督に於けるが如く、自斯く稱するに至りしも、本名はハラビなりと。 |
麻訶末は幼にして父を喪ひゥ伯叔父の强凌に遭ひ、壯にして富家の寡婦に入贅して始て產を爲し商を營む。 |
年四十餘にしてメッカ郊外の丘山に入りて沈思瞑想に耽り、轄然大悟して、自天~の豫言者を以て任じイスラムのヘを立てゝまづ之を家族友朋の閧ノ說く。 |
貞淑なる妻カジャー、忠實なる僕ゼイド、年少氣銳の從弟アリ、溫厚篤實の富者アブべクルはその最初の歸依者たりしも、 |
立ヘ三年の閧ノ此四者以外にその新ヘに投ぜしメッカの信徒は僅に十人に過ぎざりき。 |
宣傳の發程斯く遲々たる閧ノヘ主の一身を保護せし叔父と最先の信者たる妻とは逝き、 |
偶像ヘの鬪將にして而もハシェム家の深讐たるオㇺミヤー家のアブ・ソフィアンはメッカの政柄を掌握し、孤列種の一門與黨を會して議償使徒麻訶末を除かんと揚言せしかば、 |
孤立無援の豫言者はアブべクルと唯二人、夜に乘じてヤトレブに走る。 |
ヤトレブの衆幸にも之を納れ之に歸する者あり、メッカの信者亦追ひ至り、彼をアンサルといひ此をモハゼリアンと稱し、始めて一觀字(モスクー)を造り、玆にイスラムヘの根據を得たり。 |
故クに納れられざりし豫言者を納れしヤトレブは爾來長く豫言者(メヂナト・アル・ナビ)の名を得たり。 |
メヂナ奔投の日たる六二二年六月十九日(或は七月十六日とす。)はヘジラ紀元として今に至るまでイスラムヘ民に奉ぜらる。蓋しヘジラは出奔の義なり。 |
メヂナが麻訶末を迎へしは、單に其一身を擁し其新ヘを護りし而已ならず、宣ヘ的征略の大方策を確立せり。何ぞや。 |
メヂナの民はヘ主に與ふるに政權を以てし宣戰講和の重任を托せしかば、玆にイスラムヘは嚴峻烈の色彩風格を帶びて天~の利劒を揮ひて地上の偶像を倒す宗ヘ戰を開始せり。 |
麻訶末揚言すらく、「劍は天堂地獄の鍵なり、~ヘの爲に流す一滴の血一夜の陣は二ケ月の齋戒祈禱に優る功コあり、 |
戰場に殪るゝ者には奈何なる罪業も消滅し、最後の審判の日に至らばその創痍は朱砂の如く輝き麝香の如く桙闔クはれし手足は天使の翼を以て補はれん」と。 |
ヘジラの翌年來攻の孤列種をべデルに擊破せしを始とし、次ぎてアブ・ソフィアンとオオド(メジナの北六哩)に戰ひて敗れしも、 |
六二五年の塹壕の戰には能く三千の寡兵を以て一萬の大敵に當りて屈せず。 |
この豫言者を救世主と認めざりし頑迷なる猶太族の亞剌比亞に於ける本據カイバルは武力に屈しき。 |
外に在る七年にして六三〇年ク里に凱旋せし新使徒の手に方廟の偶像三百六十は毀たれぬ。 |
由來商旅と盜寇とを生とせる慓悍熱 烈の亞剌伯(アラブ)族は左に經典を捧げ右に利劒を提げて起つ新ヘの宣傳的征略を聞くや四方より蹶起してヘ旗の下に雲集せり。 |
メッカの征定歸伏は亞剌比亞の向背を決せり。 |
屍を馬革に裹むの光榮は卽是天堂樂園に復活するの祝にして、唯一~ヘの天啓的宣傳は今や直に亞剌比亞漠中の健兒を擧りての天下に對する征略的戰役となれり。 |
ヘ軍ヨルダン河東の地を侵してムタの一戰に~劒カレドの驍名を傳へし時、 |
齡旣に六旬を超えし麻訶末は熱 を病むこと二週日、寵姫アエシァの膝に枕して逝けり、否、~馬ボラクに騎りて天に昇りぬ。 |
時に基督紀元六三二年、東羅馬のヘラクリウス一世帝の世、東洋にては唐の太宗の貞觀七年にして、わが舒明天皇の卽位四年なり。 |
麻訶末に一女ファチマありてアリに嫁し二子を生む。君王としては以て麻訶末の後嗣たり得べし。而もヘ主としては事情必ずしも血族姻親の法燈を襲ぐを許るさず。 |
教祖の後第一の傳燈者たる最初の哈利發(ハリッア)はアブべクルに歸せり。 |
イスラムヘ史に於ては征略の記錄は卽ヘ法宣傳の事蹟たり。アブべクルの立つや、時正に羅馬波斯二大舊國の衰運に際會せしかば、 |
ゼイドの子オサマに敍里亞をカレドにイラク(古のバピロニア)を伐たしめ、ダマスコスを陷れ、猶太基督兩ヘの靈域たるヱルサレムを攻めき。 |
六三四年に示寂せしアブベクルの後を承けしオマル恰刊發の世には彼斯帝國の討滅、叙里亞パレスチナの征定、 |
埃及の征服によりて地中海東より西亞細亞一帶の地域に一大ヘ國の建設を見たり。オマルの刺客の手に殪れしは六四四年なれば、 |
亞剌比亞半島を風靡せし教祖の寂後僅に十二年にして此大征略を爲せる、宛然燎原の火とやいはん、決河の水とやいはん。 |
時に彼斯の薩賛(サツサン)王室の遺ゲツは鳥滸藥殺(オクス・ヤクサルテス)河閧ノ避遁し中央亞細亞のゥ小國を連ね唐朝の後援を得て克復を圖らんとせしに、 |
唐は貞觀の末年、盛に西城の經略を講ぜしかば、オマルの後を承けし哈利發オトマンの使者は遙に長安に至りて唐に通じき。 |
殆んど同時に東西竝び起りて亞細亞大陸を折半せる李唐とイスラムヘ國とは玆に一大折衝を見んとせしに、適太宗崩じ高宗位を承けて天涯無用の師を勞せず、 |
爲にオトマンは閧得て地中海南の經略の歩を進め得たり。 |
若し夫岳父の寂後三哈利發二十餘年の世を經て六五六年に第四世の哈刊發となりしアリの治世には、外に對する征略卽宣傳の見る可きなく、 |
內却りて本派(ソンナ)別派(シアアー)の兩ヘ流分裂の端を啓きしに過ぎず、以て所謂四哈利發の世を終れり。 |
アリに反抗蹶起せし叙里亞のモアヰヤーは六六一年ダマスコスに據りて十四哈利發八十九年に亙る世襲傳統の基を開く。 |
オㇺミヤー朝是にして、唐の高宗の龍朔元年より玄宗の天寶九年に及び、わが孝コ天智兩帝の閧謔闕F謙天皇の天平勝寶の始に當る。 |
大抵オマルの奮闘努力に定まりしイスラムヘの分野はオㇺミヤー朝の初盛に入りて更に一段の擴大を致せり。 |
則、モアヰヤーの世にコンスタンチノブルの攻圍あり、アクバルの北亞非利加の征略は着々進歩し、その繼嗣エジド哈利發の世には太西洋岸に達せり。 |
エジドの子モアヰヤー二世の世は內亂鬪爭に終りしも、之に次ぎしアブヅル・マリク、ワリド父子兩哈利發の治下に、 |
北亞非利加の失業を復してその太守と爲りしムサ父子は埃及總督アブヅル・アヂヅと與に勢を地中海上に張り、 |
その水師はシシリア、サルヂニアゥ島を下し、北に渡りて西班牙半島の西ゴト王國を征服せるムサの部將タリクの名は長く海峽に殘りて今に及びて其地はジブラルタルと稱せらる。 |
之と同時に東方にはイラクのハジァヅ異圖を懷きしより、連りに東征を企て、 |
一將クタイバは烏滸水外(トランステキシアナ)に向ひて數年の閧ノ不花剌(プラハ)、花剌(ホラ)子模(ズム)麻阿等中央亞細亞のゥ地を略定してその勢葱嶺に及びて直に唐の西關を叩き、 |
他の一將ムハメッド・カシムは印度に向てモクラム、信度(シンド)、ムルタンを略定しパンジァブ地方を風靡せり。 |
ワリドの示寂は七一五年、卽、唐の玄宗の開元の始に當り、ヘ祖の昇天後八十餘前のみ。 |
換言すれば麻訶末の立教宣傳以後僅に百餘年にしてその新ヘ法は東は葱嶺印度河東より西はピレネー嶺西太西洋上に及び北は裏海K海より南は印度洋亞非刺加の大漠に抵りしなり。 |
斯の如き偉蹟斯の如き~速は洵に古今史上の空前にして恐らく絕後たらん。若し夫速に得る所は速に喪ひ逆に取る所は順に守り難きは人事の常套たり。 |
然るに利劒の利にョりしイスラム教國は洵に人閧フ業に屬して幾ならずして叛亂に踵ぐに瓦解を以てし興廢隆替交も至りしと雖も、眞ヘの眞を信ぜしイスラムヘ界は~業靈蹟の爭ひ難きか、 |
後僅に西隅に西班牙を失ひしも更に北は中央亞細亞より西伯利亞に宣傳の路を開き南は印度の大半島を掩ひて南洋に光被し東は禹域に弘通して以て今に至り、 |
單に能く數億民衆の信仰を繫ぐ而巳ならず、その信念渴仰の篤厚熱 烈は末法の現時天下ゥ宗に冠絕するの觀あり。 |
汎イスラミクの一語は此大ヘ界を包掌して眠れる獅子の如く今にして尙能く西歐民族の惡夢たり。是豈世界思想界に於ける一大勢力ならずや。 |
ヘ祖麻訶末の傳記その繼嗣ゥ哈利發の事蹟は世界史上の顯著なる史實にして、坊阯ャ布の普通史も尙且その一斑を揭げざるなし。 |
その詳密なる論究と記述とに至りては海外夙に先賢の述作尠からず厖然たる巨篇大著を爲せり。獨わが邦その書甚多からざるも尙若干の著作あり。 |
故に右に說く所は唯この譯本コーラン經の後に本經の來由を略述せんとする背景とし參照となすに止む。 |
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二 |
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イスラムヘの聖典アル・コーランは誰の手に出でしか。 |
是古來學者の疑案とし問題とせる所なりしも、終に若干の助手ありしは疑なきも主として教祖麻訶末の口に出で手に成りしは疑を容れずと爲さる。 |
但その助成者に就きてのゥ說は紛々として一定せず。 |
されどイスラムヘ徒はコーランを以てヘ祖の述作とさへ爲さず、もとより他人の手に出でしとは爲さず。 |
洵にC眞正ヘの聖典として~意に成る、否、世界の始終を通じて永劫に存在する所にして創作されしに非ず、過去當來の~誥を錄せる天~が玉案金櫃の秘籍なり、 |
之を一卷の經典として人閧ノ將來傳授せしはラマダーンの月に天使ガブリエルが最下層天に齎し下り、二十三年閧ノ或はメッカにて或はメヂナにて、時々ヘ祖に示し、 |
一年に一度は金玉を鏤め絹縑の裝釘せる全典を之に示せしが、ヘ祖の末年には年に二び之を見たりきといふ。 |
またいふ、百十四品中の數品は一時に授けられしも、その大部分は斷篇零章にて默示されきとぞ。 |
今傳はるコーランの辭句はヘ祖の口づから授くるに當り記室之を承け錄してヘ徒に傳へしに、大抵は之を心裡に銘記せしも、若干の信徒は私にその若干を筆錄保存せり。 |
たゞ斯る筆錄の原本はゥ人の手に成り且何等時期年代の次序なくして筐底に納められしため、示ヘ多く年時久しきまゝに紛糾錯綜を來すは情理自然の勢たりき。 |
ヘ祖の示寂に當りては、その傳燈の法嗣をすら定むるに遑なければ、何等經典の結集なく、その二十年の說法は依然として斷扁零章たり、 |
否その示ヘの多くは口授心記に屬すれば、若しその人亡びなば所傳亦從ひて失はるべし。 |
ヱママーの戰に多數の故老戰歿するに至りて聖訓~ヘの久しからずして所傳を失ひ湮沒に歸せんを憂ひし當初の哈利發は玆に極力その收集保存を圖るに至れり。 |
その結集はアブベクルに始まりしともまたオマルの世に起りしともいふ。 |
始メヂナの人アンサリ家のザイド・イブン・タービト命を奉じて事に當り、椰子葉皮紙等の筆錄は勿論口頭心裡よりも博捜集輯して哈利發アブベクルに上つる。 |
アブベクルは之をヘ祖の一侍姫たるオマルの女ハフサに托せり。 |
後世にコーランは實にアブベクルの手に成れりとの說生ぜしはこれが爲にして、實はヘ祖の說ヘをアブベクルが結集せるに外ならず。 |
且その結集も時序を檢せず唯長篇を先にし短章を後にし且幾多の片言零章を單に文辭句格の整調のためにゥ處に挿入せり。 |
加ふるにザイドの結集は經文に過ぎず、その意義の研究校訂に及ばず。されば亞剌比亞文にて屢一語の意義に甚大の相違を生じ得る母音符の省略されしもの尠からず。 |
また假令この憂を免るゝも、心裡に經文を記憶するも傳者によりてその辭句の一致せざるあり、或は單に示ヘの意義を領承せるのみなるあり、さては同語と雖も地方によりて意義の相違せるあり。 |
否、極言すればヘ祖自も亦その人に應じ時に臨みて其辭同義を說きしとありて、「コーランには七種の讀法あり」といふ口碑さへ存せり。 |
或は之を以て七種の地方語をいふと解することあり。 |
實際に於てもアブ・ムサ・アル・アシァリのイラク傳、マクダド・イブン・アスワドの叙里亞傳等の差異を生ぜり。 |
是に於て哈利發オトマンは上述のザイドとアブダルラー・イブン・ゾバイル、サイド・イブン・アル・アス、アブダルルラーマン・イブン・アル・ハリトとに命じて、 |
ハフサ筐中のアブベクルの原本を校訂せしめて孤列種族の語に錄せしめて定本と爲し、之を博く天下に頌ちて後舊來流布のゥ異本を禁遏せり。 |
時に六〇六年なりといへば、わが推古天皇の十四年、隋の煬帝の太業二年に當れり。 |
アル・クランAL Qur'an(コーラン)の名稱はqara'a則、讀誦の義の動詞より起り、人生必讀の聖典の意にて之に名く。 |
或はqarana則、結集の義より出づと爲す論者ありて、イスラムヘ徒のいふが如き幾千年の闔々の天啓默示にあらずして一時に結集せるは此名稱に徵して明白なりと爲せども、 |
恐らく前說の正しきに若かざらん。 |
但コーランの名が所傳の全經をもいひその一部分をもいふこと、猶太人のその聖典にカラーKarah若しくはミクラMikraの稱を用ふるが如し。 |
コーランにはまた若干の異稱あり。 |
アル・フルカンal Furqan(el Forqan)といふはファラカfaraqap則、區分識別の義の動詞より起る。 |
イスラムヘ師は此の經卷を章段に分ちし故にこの名ありといひ、また善惡是非の差別を說く故に名づくといふも、然らず、 |
猶太族が聖典の一部をペレクPerekまたはピルカPirkaと稱すると同義にして、~宣の意を表するに出づ。 |
またアル・ムシァフal Mushaf(卷)、アル・キタブal Kitab(書)などいへるは、希臘語にて聖典を聖書(バイブル)といふと同じ。 |
アル・ヂークルal Dhikr(Ehikr-Dhikr)といふはヘ戒の義にして、五部書PentateuchゴスペルGospelをも斯くいへり。 |
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三 |
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コーランの經文は百十四品(スラ)に分る。每品の長短一樣ならず。 |
スラSura(Surah)は他の文獻には罕覯の語にて、その意は列、次、序の類にて、例えば建築の甃磚の列層軍隊の兵士の列次をいふが如し。 |
猶太ヘにて五部書の五十三章をセダリムと稱するも亦スラはトラの複數なり。 |
每品には原普通の譯本に用ひらるゝが如き數目なし。唯題目あり。 |
題目なきは序品のみにて、羅甸の舊譯本には之を品數に加へず。 |
題目は、品中の特殊の事件人物等より探るも、多くは經文の語を採れり。但傳本によりてはこの品題の異なるものあり。 |
オトマンの定本は後世所傳の聖典の原本なれども、此本にても時序の訂正を加へず。 |
唯每品にその示ヘの地を分ちてメヂナ、メッカを區別せるも、これすら錯誤を免れず。 |
故に後のコーラン學者とイスラムヘの研究者とはその時序の調正に腐心せしが、中に就きてジェラルウッヂン・シユチの「イトカン」、 |
ネルデケの「コーラン經原」、ムイアの「麻訶末傳」等に考定せる所は各信憑すべき努力ありて學者の参考に資すべければ、此譯本には之を目次の下に繫けたり。 |
蓋し此考定は各品の史的事實、全篇の文體、各辭句の用法等より推斷せらる。 |
メッカ、メヂナの區別は文體と主要なる事件とによりて容易に爲し得べし。 |
ヘ祖の前半に啓示せる所は文辭莊重にして豫言者としての昂調、使徒としての 烈最顯著なりと雖も、晩出のメヂナ豫言に至りては主として君主立法者としてのヘ示多し。 |
勿論實際何の地にてのヘ示說法なりや明ならざるもの多きも大抵この差異によりて兩地を分ちしに似たり。 |
また閭<bカ、メヂナ兩地の默示を混同せるものあり。 |
各品(スラ)は長短の節より成る。西人は之にヴースの字面を當つ。 |
蓋し亞剌比亞語は通常三母音より成り、その文章は概ね韻律の調格を具ふるに因ると雖も、本來はアヤトayatといひ、希伯來書のオトトと同じく記號の義のみ。 |
之を以て經文辭意の差別を分つこと多きも、また何等の意義なくして句を分ち節を切ることあり。 |
從ひて節(アヤト)の區分は傳本によりて一樣ならず。 |
コーランの傳本には二種のメヂナ本とメッカ、クファ、バスラ、叙里亞、坊阮{との七種なり。 |
メヂナ本の甲は六千句(節ヴース)、その乙とバスラ本とには六千二百十四句、メッカ本は六千二百十九句、クファ本は六千二百三十六句、叙里亞本は六千二百二十六句、 |
坊阮{は六千二百二十五句にして、その最少と最多とは二十二句の差あるも、 |
孰も語の數は七萬七千六百三十九語或は九萬九千四百六十四語、字(ハルフ)の數は三十貳萬三千十五字或は三十二萬百十三字といへり。 |
またルクRukuに分つ區分法あり。ルクはもと匍匐の義なれども今譯して章となす。 |
章(ルク)に各品の章と部(シツバラ)の章とあり。ヘ徒は通常ルクの別を用ひてアヤトの別を用ひず。 |
更にイスラムヘ徒の用ふる他の段落法あり。 |
コーラン全篇を六十ヒヅブHizbに分ち、更に每ヒヅブを四等分するはその一法にて、猶太ヘ徒がミシュナを六十段(マツシオオト)に分つ例に據れり。 |
されど之よりも尙普通の段落法は三十部(ジユウ)Juzに分つ法なり。 |
波斯語に稱してシパラSiparaといふは三十をシといひ部をパラといふによる。 |
而して每部を四段に分つより四分一(ルバ)Ruba半部(ニフス)Nisf四分三(スルス)Sulsの區分生ず。 |
イスラムヘ徒は品と節句とを用ひずして寧部と章とに據るを常とす。 |
蓋し三十部の區分はラマダーンの一月中に全經を通誦するの便宜に出で、また公式の觀字(モスクト)には三十の讀師をして每日各自に一部を讀誦すれば一日に能く全經を讀丁するを得ればなり。 |
終に全典を七篇(マンチル)Manzilに分つ。 |
每篇に名けてファ、ミム、ヤ、バ、シン、ワウ、カ(F.M.Y.B.Sh.W.Q)といふ。 |
七字を連續すればファミベシァウクFamibeshauq則、「わが口希ふ」の義と爲る。 |
蓋しまた各人をして一週七日に全經を讀誦せしめんが爲に分つ所とす。 |
この譯本には以上列擧せし各品の題名數目、メッカ、メヂナ默示の別、章(ルク)、節(アヤト)、部(シパラ)、四分一、半、四分三、篇(マンチル)を悉く具載したり。 |
唯その學者推定の年序に據らざるは、 |
「そは假令研學の徒の一助たり得んも、ムスリムの用ひ來れるが如く麻訶末の傳燈者が舊を存せしが如き聖典の面目を損すれば」といへるパルマーの說に予も亦賛すればなり。 |
各品の卷頭には大抵ビスミルラーBismillahと稱する頌~の一句あり。 |
曰く「大慈悲~の名に於て」と。 |
蓋しこれ獨經文聖典のみならず、あらる典籍文書の冠冒に此辭句あるはイスラムヘ徒の常套にして、これなければ不敬~と爲せるなり。 |
宛も猶太人が常に「上帝の名に於て」または「大~の名に於て」といひ、東方基督ヘ徒が「~父~子靈の名に於て」といふの類なり。 |
而も亞剌比亞人の此風習は波期のマギに學びしこと始んど疑を容れず。 |
マギは「最仁慈正直の~の名に於て」といふを常としたりき。 |
またコーラン中の二十九品には卷頭に若干の單字あり。 |
教徒は之を以てコーラン經の特色にして深奧幽玄の~祕を藏し、ヘ祖豫言者以外には人闡Pくその眞諦を解する者なしと爲す。 |
されどまた或者は、之を以て~の名、性、業、命、令を表するものと爲し、或はまた之を以て若干の語の省略字と爲す。 |
例えば、黃牛品第二その他の冒頭なるエリフ、ラム、ミム(A.L.M.)の三字を解して、或は「~は優秀にして光榮あり」(Allah latif majid)の略字と爲し、 |
或は「われに而してわれより」(Ana li minni)の略字と爲し、 |
或は「われこそ最叡智の~なれ」(Ana Allah alam)と爲し(此場含には第一字は第一語の頭字、第二字は第二語の中闔噤A第三字は第三語の終字)、 |
さては「~、ガブリエル、麻訶末」の略字にしてコーラン經の作者天啓者說者を竝稱列擧すと爲せるが如し。 |
また或はエリフ(A.)は發語の初の喉音、ラム(L.)はその中閧フ顎音、ミム(M.)は遏尾の唇音にして、之を以て人濶]爲の初中終悉く~を頌むべきの意なりと爲す。 |
また基督ヘ徒中には、之を「麻訶末の命によりて」(Amar li Muhammed)の略字なりと解し、 |
瑪利阿母品第十九の冒頭の五字カフ、ハ、ヤ、アイン、サド(K.H.Y.AS)を以て「斯く命ず」(Koh Yaas)の略字と解する類あり。 |
ゥ家の說紛々たるは之を以て見る可し。 |
たゞ此數字に重大の意義ありと爲すは皆同じ。 |
然るにネルデケは平明に解釋して、斯る略字は最初ザイド等が經文結集の際各品を捜り得し出處人名の標目なりとせり。 |
例えばエリフ、ラム、ミムの三字はエヅ・ヅバイルEz-zubairの、雷電品第十三のエリフ、ラム、ミム、ラ(A.L.M.R.)の四字はアル・ムハイラーAl-Mughairahの、 |
他哈品第二十のタ、ハ (T.H.)の二字はタラーTal'Hahの略字と解するが如し。 |
この說恐らく最穩當のものにや。 |
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四 |
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コーランの經文には顯(Zahir)晦(Khafi)兩種ありとの說あり。 |
顯文に四別あり。 |
その一、ザヒルZahirは平明の文なり。 |
その二、ナッスNassは顯著の文なり。例えば「爾曹の欲するまゝに二人、三人若しくは四人の婦人と婚せよ」といふ「爾曹の欲するまゝに」の如し。 |
その三、ムフッサルMufussarは他の句によりて說明さるる文なり。例えば「ゥの天使は一齊に平服せり、イブリスを除きて」の「イブリスを除きて」の一句の類なり。 |
その四、ムーカムMuhkamは意義明白爭ひ難き字句を指す。例えば餐卓品第五の「渠は萬事を知る」の渠の一字の明に~を指すが如し。 |
晦文にも亦四別あり。 |
その一、カーフィKhafiとは平明の字句の下に包括さるゝ隱れたる者または事を指す。 |
餐卓品に「男女を別たず竊む者はその行ひし罪の應報としてその手を斬れ」といへる盜賊(サリク)Sariqの一語には掏盜公賊を併せ指すが如し。 |
その二、ムシュキル(曖昧)Mushkilとは、人阨i第七十六の「白銀の器皿を執りて‥‥瓶子は白銀にて輝かん、よりて量を測り得ん」の如し。 |
その三、ムヅマル(多義)Mujmalとは幾多の解釋何れに適從すべきや明ならぬをいふ。 |
その四、ムタシァビー(混淆)Muta Shabihとは豫言者の外は復活の日に至るまで何人もその眞を知り得難き字句なりとて、上述の各品の冒頭略字等をいへり。 |
コーラン經文中には若干の改廢の節句(マンスクー)Mansukhあり。 |
黃牛品第二に「如何なる言句を抹消しさては爾曹をして忘れしむるも吾更に其よりよき訓辭若しくはそれに類する善言を授けん」と明言せるが如く、後出の辭句と意義とを以て屢前出の者を改廢せり。 |
上卷の附錄第二註釋、黃牛品一〇五の註釋參照。 |
アジジのコーラン註釋Tafsir-i-Aziziに改廢を分ちて、 |
一、節(ヴース)のコーラン中より除去され他の節(ヴース)を以て代ふるもの、 |
二、命令の改廢されて節(ヴース)の殘存せるもの、 |
三、節(ヴース)と命令とともに本文より刪除されしものゝ三種と爲せり。 |
ジェラルウッヂンも亦此說に同じ、且改廢の條數は學者によりて五條より五百條に至る異說ありとし、最多數の註釋者が皆視て改廢されたりと爲す二十條を擧げて次の表を作れり。 |
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廢 |
改 |
內容 |
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【一】 |
黃牛品第二 |
一一五 |
黃牛品第二 |
一四五 |
キブラ。 |
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【二】 |
同 |
一七八 |
餐卓品第五 |
四九 |
キサス(報償)。 |
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伊色列品第十七 |
三五 |
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【三】 |
同 |
一八三 |
黃牛品第二 |
一八七 |
ラマザンの齋戒。 |
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【四】 |
同 |
一八四 |
同 |
一八五 |
フイヂア。 |
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【五】 |
伊牟蘭品第三 |
一〇二 |
僞瞞品第六十四 |
一六 |
~の畏怖。 |
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【六】 |
女人品第四 |
八八 |
女人品第四 |
八九 |
ジバト(不信者との戰)。 |
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懺悔品第九 |
五 |
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【七】 |
黃牛品第二 |
二一六 |
懺悔品第九 |
三六 |
~聖月に於ける不信者との戰。 |
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【八】 |
同 |
二四〇 |
黃牛品第二 |
二三四 |
寡婦の食糧。 |
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【九】 |
同 |
一九一 |
懺悔品第九 |
五 |
聖觀(モスクー)中に敵を殺すこと。 |
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【一〇】 |
女人品第四 |
一四 |
光明晶第二十四 |
二 |
奸淫者の禁錮。 |
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【一一】 |
餐卓品第五 |
一〇五 |
婚離晶第六十五 |
二 |
證人。 |
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【一二】 |
掠略品第八 |
六六 |
掠略品第八 |
六七 |
不信者に對する戰。 |
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【一三】 |
光明品第二十四 |
三 |
光明品第二十四 |
三二 |
奸淫者の結婚。 |
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【一四】 |
連盟品第三十三 |
五二 |
連盟品第三十三 |
四九 |
豫言者の妻妾。 |
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【一五】 |
抗爭品第五十八 |
一三の初半 |
抗爭品第五十八 |
一三の後半 |
集會前の施與。 |
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【一六】 |
試女品第六十 |
一一 |
懺悔品第九 |
一 |
結婚する婦人の爲に不信者への錢給與。 |
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【−七】 |
懺悔品第九 |
三九 |
同 |
九二 |
不信者に對する戰。 |
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【一八】 |
包套品第七十三 |
二 |
包套品第七十三 |
二〇 |
夜禱。 |
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【一九】 |
光明品第二十四 |
五七 |
光明品第二十四 |
五八 |
幼兒を家に入るゝ允許。 |
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【二〇】 |
女人品第四 |
七 |
女人品第四 |
一一 |
財產の分配。 |
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コーラン經の註釋(タフシル)Tafsirは甚多し。 |
その中には、幾多價値なき猶太傳說を襲蹈引用し、若しくは牽强附會の說を作す者も亦多し。 |
蓋しコーランは始より不明曖昧の疑點多く、また或部分はその默示の事情審ならぬに出づ。 |
爲にヘ祖の一姪イブン・アッバスは聖經を釋して若干の虛僞を捻出せり、否少くともその門下生は其例を逐へり。 |
最初の註釋家の努力は節章の連絡意義の疏通を主として辭義語釋に及ばざりしに、世を經て古語漸く廢れ哲學漸く興るとともに語句の解釋起る。 |
この註釋的材料の多數は恐らくヘジラ紀元三一〇年基督紀元九二二年に歿せし有名の史家タバリの書に出でしが如し。 |
コーラン註釋の夙出の大家はジァルルラー・ザマクーシャリJarallah Zamakhshariにしてヘジラ紀元五三七年若しくは五三九年(一一四二年若しくは一一四四年)に歿し、その著をカシュシァフと名づく。 |
最世に知られしは之と略同時の人バガーヰ(五一五年若しくは其翌年(一一二二年)歿の註釋なるも、そは殆んどザマクーシァリの抄出に過ぎずと稱せらる。 |
年代に於て此兩大家に次ぐ者をバイザヰBaizawiと爲す。 |
本名はナシルウッデンなるも、シラヅのバイザ村の產なればこの通稱を以て識別せらる。 |
六八五年(一二八六年)別說にては六九一年(一二九二年)に易簀せしが、そのコーラン註釋Tafris Baizawiは最世に行はる。 |
つぎて七〇一年に歿せしマダリクMadarik、九〇〇年頃に世を去りしフサイン等の註釋あれども、ジェラルウッヂン・サユチJulaluddin Sayutiの註釋の重要なるに及ぼず。 |
サユチは埃及の人、九一一年(一五〇五年)に逝く。 |
生涯の著作甚多く、その數四百種に上ると稱せらる。 |
但、そのコーラン註釋Tafsir Jalalainの前半は八五四年(一四五〇年)に歿せるジェラルウッヂン・マハリJ,Mahariの手に成りしをユスチの續修完成せるものとす。 |
この譯本に各品の年代順を註せるはこの註釋によれり。 |
以上の外にマザーリMazhari、ファター・アル・ラーマンFatah-ar-Rahman、アヂヅAzizi、ラウフィRaufi等の註釋は屢歐人の引用し參照する所たり。 |
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五 |
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一宗の聖典がそのヘ徒より無上の崇敬を受くるは言ふを須ひずと雖も、コーランがイスラムヘ徒に尊重せらるゝは言語に絕す。 |
天上の祕籍人閧フ絕無として、ヘ徒は先手を洗ひ身を淨めざれば決してコーランに觸れず、その表裝には「不淨の者勿觸れそ」と錄して自他の不用意を戒しむるを常とす。 |
その繙閲讀誦するや肅然敬虔の態度を失はず、決して聖典を帶より下に下さず。 |
日常の宣誓も之に繫け、重大の事決は之に諮り、戰場に之を携へ、旌旗に經文を寫し、全銀珠玉を以て聖典を裝ひ、崇敬重惜至らざる莫し。 |
是に於て乎、世にイスラムヘ徒はコーランの繙譯を以て冒聖瀆~の畏ありと爲して之を許さずと說く者あり。 |
然れども夙に亞剌比亞語より波斯に譯せるあり、爪哇馬來ウルヅその他イスラムヘ界に於ける譯本旣に尠からず。 |
亞剌此亞原典の崇重とそれに從ひて譯經の或は眞諦を誤り或は玄機を失ふを恐るゝとはあらん。 |
必ずしも長く絕對に譯經を拒むこと能はず。 |
ヘ徒以外の飜譯に至りては或はヘ徒の欲せざる所若しくはその甘心せざる所たりとも之を奈何ともする莫し。 |
歐洲にて古きコーランの譯本には一一四三年(わが近衞天皇の康治二年、南宋の高宗の紹興十三年)、 |
ロベルツス・レテネンシスがクルーニーの僧ピーターの囑によりてヘルマンヌス・ダルマタの援助を得し羅甸譯あり。 |
のち一五五〇年に至りてビブリアンデル之を公刊せり。 |
ヴネチアのアンドレア・アリヴベネの伊太利譯コーランは、亞剌比亞の原本より譯出せりといふも、恐らくこの羅甸譯に據りしならん。 |
その頃ヴレンシア王國のハチヴの人にて初はイスラムヘのヘ師にて後に基督ヘの僧となりしフアンネス・アンドレアスといふ者ありて |
バルセロナの卑渉マルチン・ガルシアの命を奉じてコーランをアラゴン語に飜譯せしは第十五世紀の末なりとぞ。 |
佛蘭西の學者にてアレキサンドリアに駐札せし領事アンドレ・ヅリアが佛蘭西譯は一六四七年巴里にて初版を公にせり。 |
譯者は土耳古亞剌比語に相應に耐能なりしかば、その譯本はレテネンシスの譯本よりも優りしは論なきも尙且誤謬相踵ぎ省略蛇足竝び出で完全の飜譯と爲し難しと稱せらる。 |
チァーレス一世の勤王黨の一人たりし蘇格蘭の僧アレキサンダー・ロッス(一六五四年歿)の譯本は、恐らく最初のコーランの英譯ならんも、ヅリア本の重譯に外ならず。 |
從ひて誤謬過外u多きを加へたれば、不完全ながらもヅリア譯は尙信ョす可き唯一の歐洲語譯として屢版を重ね、以てマラッチ譯の出づるに至れり。 |
伊太利の僧ルイジ・マラッチは一六一二年にルッカに生れ、羅馬法王インノセント第十一世の懺悔師となり、 |
羅馬の種智黌(コレッゼ・デラ・サピエンツァ)の亞剌比亞ヘ授に任じ東洋學者として著れ、一七〇〇年に寂す。 |
法王の保護の下に前後四十年の努力を以てコーランの羅甸譯を完成し、一六九八年之をパヅアに公刊せしは、わが元祿十一年に相當せり。 |
その書は二卷の大本(フォリオ)にして、ヘ祖麻訶末の傳、イスラムヘに對する駁論、コーランの亞剌比亞原文、その羅甸譯、幾多の註釋より成る。 |
譯者は基督ヘ文學よりも寧東洋の文學語學に富みしかば、此譯本の西譯コーランの權威として當世の信望を集めしは恠しむるに足らず。 |
唯その疵瑕をいふ者は、譯文は原經文字の慣習形式を傳ふる詳密吁重に過ぎて却りてその辭意風格を閑却せるの弊に陷り、その駁論に至りては煩瑣冗贅徒に紙幅を揩ケしに過ぎずと爲すも、 |
最初の而も燕ラの完譯たりしと能く豐富なる註疏を集積せし功績とは永く學界の欣仰に値し今に至るまで推重せらる。 |
この羅甸譯コーランの公刊されし時十九歲の年たりし英吉利の東洋學者ジョージ・セールはその死に先つ二年、一七三四年にコーランの英譯を公にせり。 |
蓋しセールの業はオクスフォード最初の亞剌此亞語ヘ授として有名なりしエドワード・ポコック(一六九一年歿)の撕提に負ふ所多し。 |
その譯は、またマラッチの羅甸譯の燕ラ博核に準據せしため、或は繁冗の誹ありと雖も明細を缺くの憾少し。 |
故に今この譯本も亦多く之に參考準據せし意は旣に卷頭の凡例にいひしが如し。若し夫セール譯の卷首の序論に至りては最貴重の大論文たるを失はず。 |
セールの歿後十餘年に佛蘭西に生れし東洋旅行家ニコラス・サヴリーは埃及より歸るや麻訶末傳と合卷のコーランの新佛蘭西譯を世に出せり。 |
獨逸にては英佛兩國よりも後れしも、十八九世紀に亙りて輩出せる東洋學者中にワール、ウルマン、ハムメル・プルグスタルゥ家のコーラン譯本の踵出あり。 |
この譯本を成すに就きて上述のセール譯に參酌せるロドウェルの各品年次順の譯は一八六一年に、通行本の次序によれるパルマーの譯は後約二十年に公刊されき。 |
譯本以外にコーランの研究に就きて重要なる著述若干ありと雖も、就中學徒を利す可きはハイデルベルヒの東洋語ヘ授グスタフ・ワイルの「コーラン楷梯」(一八七八年再版)、 |
ゲッチンゲンのネルデケの「コーラン經原」(一八六〇年)の兩書なり。 |
以上の小篇にて予は可及簡約に、ヘ祖麻訶末の小傳とイスラムヘ弘通の略史、コーラン經の內容形式、その書史の一班を叙述せり。 |
讀者之によりてコーランに就きて多少の理解を得られんには幸なり。 |
唯或は玆に言及す可きが如くにして筆のそれに及ばざりし一事あり。 |
イスラムヘのヘ義コーランの宗ヘ文學的論評の如き是なり。 |
然れども聖典全集の主旨は直に古今東西の聖經~典を讀者に進薦するに在り、わが譯本はその內容批判を任とせず。 |
或は力めて博く先賢の所論を募集し敢て進んで蠡測管見を披攊せんは譯經の缺漏を補ひ看者の利便をuすと爲すべきも、そは書後楮餘の小篇に叙論するには重大に過ぐるを畏るゝ而已ならず、 |
亦却りて之を讀者の画、自理義に通じ沈思善く研鑽を遂ぐるに委するに如かざるを想へばなり。 |
讀者幸に以て譯者を咎むる勿れ。 |
囘顧すれば譯者の學窓を出でゝ始めて筆を執りしは明治三十二年刊行の麻訶末の小傳なりき。 |
爾來星霜二十一年、今にしてその聖典コーランの譯者たり得しは佛家の所謂困緣淺からざるもの歟。 |
譯文の剪陋は深く自慚づるものから、宛も身ムスルメンたるが若き愉スを以て百十四品を一氣譯了し得し快心事を錄して跋に代へしめよ。 |
若し幸に好機高得ば他年更に或はコーラン經の譯稿を推敲改修し得可く或はイスラムヘの綱要を論述し得ん。 |
アルラーォアクバル。 |
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大正九年春分 |
蠡舟生 |
右にいへる麻訶末の傳記若しくはイスラムヘに就きての拙稿一篇は近く本刊行會にて別に上梓せんとの議あり。その書出でんには幸に本經の參照とされんことを切望す。 |
夏至後一日 |
蠡舟生 再識 |
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Office Murakami |