四つの福音書による一つのイエス物語259
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書を一つのイエス物語に纏めました
マルコ→マタイ→ルカ→ヨハネの順にイエス物語は発展していきます
物語の初めから終りまでを331の話に分け話の一つ一つを四福音書の日本語訳を並べる形で紹介しています
福音書の日本語訳は英国聖書會社「新約全書」(明治三十九年発行)、日本聖書協會「新約聖書」改譯(大正六年)、日本聖書協会「新約聖書」口語訳(昭和二十九年)を並べて比較できるようにしました
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259
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イエスについて癒された人が調べを受ける
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上の言葉が四福音書の中でどう記されているか、記されていないか
ΚΑΤΑ ΜΑΡΚΟΝ  ΚΑΤΑ ΜΑΤΘΑΙΟΝ ΚΑΤΑ ΛΟΥΚΑΝ ΚΑΤΑ ΙΩΑΝΝΗΝ
馬可傳iケ書 馬太傳iケ書 路加傳iケ書 約翰傳iケ書
マルコ傳iケ書 マタイ傳iケ書 ルカ傳iケ書 ヨハネ傳iケ書
マルコによる福音書 マタイによる福音書 ルカによる福音書 ヨハネによる福音書
9;13〜34
第九章一三〜三四節
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英国聖書會社「舊新約全書」(明治三十九年発行)の「新約全書」で見てみましょう
約翰傳iケ書第九章
十三 彼等このなりしをパリサイの人の所に携詣れり
十四 土を和てイエス彼が目を啓し日は安息日なりき
十五 パリサイの人も彼に問けるは爾の目は如何して啓たるや答けるは彼泥を我目に置われ其を洗て見ことを得たり
十六 或パリサイの人いひけるは此人安息日を守ざるが故に~より出しに非ず或人いひけるは罪人いかで斯ろ奇跡な行ふことを得んや是に於て彼等あらそひ別たり
十七 また瞽者に曰けるは爾の目を啓しにより爾かれの事を何と言や答けるは彼に預言なり
十八 ユダヤ人かれの瞽者なりしに見得やう爲しことを其二親を呼來るまでは信ぜず卽ち二親を呼來りて
十九 之に問けるは此人は瞽者にて生しと言ところの爾曹の子なるか今いかにして見ことを得たる乎
二十 二親かれらに答けるは此は我子なると生來のなるとを知
二一 然ど今如何して目明に爲しか我これを知ず亦その目を啓しは誰なる乎を知ず彼は年長なり彼に問よ彼みづから言べし
二二 二親の如此いひしはユダヤ人を懼しに因そはイエスをキリストと言明すあらば會堂より出すべしとユダヤ人たがひに議定たれば也
二三 二親の彼は年長なり彼に問よと言しは此故なり
二四 なりしを復よびて曰けるは榮を~に歸せよ我は彼人の罪人なるを知
二五 かれ答けるは罪人なるや否われ之を知ず我は瞽者なりしが今目明になれる此一事を知
二六 彼等また曰けるは彼は爾に何を行しや如何して爾の目を啓しや
二七 答けるは我すでに爾曹に言しに爾曹きかず何故ふたび聞んとするか爾曹も其弟子に爲んと欲ふや
二八 かれらり曰けるは爾は其人の弟子われらはモセの弟子なり
二九 ~のモセに語し言は我しれり然ど此人の何處より來れる乎を我しらず
三十 其人こたへけるは此は奇き事なり彼すでに我目を啓しに其何處より來れるを爾曹しらずと曰
三一 ~は罪人に聽ず然ど~を敬ひて其旨に遵ふはて聽たまふと我は知
三二 世の元始より以來うまれつきなる瞽者の目を啓し人あるを聞ず
三三 もし此人~より出ずば何事をも行得ざるべし
三四 彼等こたへて曰けるは爾は盡く罪孼に生しなるに反て我るか遂に彼を逐出せり
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日本聖書協會「新約聖書」改譯(大正六年)で見てみましょう
ヨハネ傳iケ書第九章
一三 人さきに盲目なりしをパリサイ人らの許に連れきたる。
一四 イエスの泥をつくりて其の人の目をあけし日は安息日なりき。
一五 パリサイ人らも亦いかにして物見ることを得しかと問ひたれば、彼いふ『かの人わが目に泥をぬり、我これを洗ひて見ゆることを得たり』
一六 パリサイ人の中なる或人は『かの人、安息日を守らぬ故に、~より出でしにあらず』と言ひ、或人は『罪ある人いかで斯る徵をなし得んや』と言ひて互に相爭ひたり。
一七 爰にまた盲目なりし人に言ふ『なんぢの目をあけしに因り、汝は彼に就きて如何にいふか』彼いふ『預言なり』
一八 ユダヤ人ら彼が盲人なりしに見ゆるやうになりしことを未だ信ぜずして、目の開きたる人の兩親を呼び、
一九 問ひて言ふ『これは盲目にて生れしと言ふ汝らの子なりや、然らば今いかにして見ゆるか』
 兩親こたへて言ふ『かれの我が子なることと盲目にて生れたる事とを知る。
二一 されど今いかにして見ゆるかを知らず、又その目をあけしは誰なるか、我らは知らず、彼に問へ、年長けたれば自ら己がことを語らん』
二二 兩親のかく言ひしは、ユダヤ人を懼れたるなり。ユダヤ人ら相議りて『若しイエスをキリストと言ひ顯すあらば、除名すべし』と定めたるに因る。
二三 兩親の『かれ年長けたれば彼に問へ』と云へるは、此の故なり。
二四 かれら盲目なりし人を再び呼びて言ふ『~に榮光を歸せよ、我等はかの人の罪人たるを知る』
二五 答ふ『かれ罪人なるか、我は知らず、ただ一つの事をしる、ち我さきに盲目たりしが、今見ゆることを得たる是なり』
二六 彼ら言ふ『かれは汝に何をなししか、如何にして目をあけしか』
二七 答ふ『われ旣に汝らにげたれど聽かざりき。何ぞまた聽かんとするか、汝らもその弟子とならんことを望むか』
二八 かれら罵りて言ふ『なんぢは其の弟子なり、我等はモセの弟子なり。
二九 モセに~の語り給ひしことを知れど、此の人の何處よりかを知らず』
 答へて言ふ『その何處よりかを知らずとは怪しき事なり、彼わが目をあけしに。
三一 ~は罪人に聽き給はねど、敬虔にして御意をおこなふ人に聽き給ふことを我らは知る。
三二 世の太初より、盲目にて生れしの目をあけし人あるを聞きし事なし。
三三 かの人もし~より出でずば、何事をも爲し得ざらん』
三四 かれら答へて『なんぢ全く罪のうちに生れながら、我らをヘふるか』と言ひて、遂に彼を迫ひ出せり。
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日本聖書協会「新約聖書」口語訳(昭和二十九年)で見てみましょう
ヨハネによる福音書第九章
一三 人々は、もと盲人であったこの人を、パリサイ人たちのところにつれて行った。
一四 イエスがどろをつくって彼の目をあけたのは、安息日であった。
一五 パリサイ人たちもまた、「どうして見えるようになったのか」、と彼に尋ねた。彼は答えた、「あのかたがわたしの目にどろを塗り、わたしがそれを洗い、そして見えるようになりました」。
一六 そこで、あるパリサイ人たちが言った、「その人は神からきた人ではない。安息日を守っていないのだから」。しかし、ほかの人々は言った、「罪のある人が、どうしてそのようなしるしを行うことができようか」。そして彼らの間に分争が生じた。
一七 そこで彼らは、もう一度この盲人に聞いた、「おまえの目をあけてくれたその人を、どう思うか」。「預言者だと思います」と彼は言った。
一八 ユダヤ人たちは、彼がもと盲人であったが見えるようになったことを、まだ信じなかった。ついに彼らは、目が見えるようになったこの人の両親を呼んで、
一九 尋ねて言った、「これが、生れつき盲人であったと、おまえたちの言っているむすこか。それではどうして、いま目が見えるのか」。
二〇 両親は答えて言った、「これがわたしどものむすこであること、また生れつき盲人であったことは存じています。
二一 しかし、どうしていま見えるようになったのか、それは知りません。また、だれがその目をあけて下さったのかも知りません。あれに聞いて下さい。あれはもうおとなですから、自分のことは自分で話せるでしょう」。
二二 両親はユダヤ人たちを恐れていたので、こう答えたのである。それは、もしイエスをキリストと告白する者があれば、会堂から追い出すことに、ユダヤ人たちが既に決めていたからである。
二三 彼の両親が「おとなですから、あれに聞いて下さい」と言ったのは、そのためであった。
二四 そこで彼らは、盲人であった人をもう一度呼んで言った、「神に栄光を帰するがよい。あの人が罪人であることは、わたしたちにはわかっている」。
二五 すると彼は言った、「あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです」。
二六 そこで彼らは言った、「その人はおまえに何をしたのか。どんなにしておまえの目をあけたのか」。
二七 彼は答えた、「そのことはもう話してあげたのに、聞いてくれませんでした。なぜまた聞こうとするのですか。あなたがたも、あの人の弟子になりたいのですか」。
二八 そこで彼らは彼をののしって言った、「おまえはあれの弟子だが、わたしたちはモーセの弟子だ。
二九 モーセに神が語られたということは知っている。だが、あの人がどこからきた者か、わたしたちは知らぬ」。
三〇 そこで彼が答えて言った、「わたしの目をあけて下さったのに、そのかたがどこからきたか、ご存じないとは、不思議千万です。
三一 わたしたちはこのことを知っています。神は罪人の言うことはお聞きいれになりませんが、神を敬い、そのみこころを行う人の言うことは、聞きいれて下さいます。
三二 生れつき盲人であった者の目をあけた人があるということは、世界が始まって以来、聞いたことがありません。
三三 もしあのかたが神からきた人でなかったら、何一つできなかったはずです」。
三四 これを聞いて彼らは言った、「おまえは全く罪の中に生れていながら、わたしたちを教えようとするのか」。そして彼を外へ追い出した。
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