四つの福音書による一つのイエス物語210
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書を一つのイエス物語に纏めました
マルコ→マタイ→ルカ→ヨハネの順にイエス物語は発展していきます
物語の初めから終りまでを331の話に分け話の一つ一つを四福音書の日本語訳を並べる形で紹介しています
福音書の日本語訳は英国聖書會社「新約全書」(明治三十九年発行)、日本聖書協會「新約聖書」改譯(大正六年)、日本聖書協会「新約聖書」口語訳(昭和二十九年)を並べて比較できるようにしました
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210
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「父が私に語った通り私は語っている」
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上の言葉が四福音書の中でどう記されているか、記されていないか
ΚΑΤΑ ΜΑΡΚΟΝ  ΚΑΤΑ ΜΑΤΘΑΙΟΝ ΚΑΤΑ ΛΟΥΚΑΝ ΚΑΤΑ ΙΩΑΝΝΗΝ
馬可傳iケ書 馬太傳iケ書 路加傳iケ書 約翰傳iケ書
マルコ傳iケ書 マタイ傳iケ書 ルカ傳iケ書 ヨハネ傳iケ書
マルコによる福音書 マタイによる福音書 ルカによる福音書 ヨハネによる福音書
12;44〜50
第一二章四四〜五〇節
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英国聖書會社「舊新約全書」(明治三十九年発行)の「新約全書」で見てみましょう
約翰傳iケ書第一二章
四四 イエス呼り曰けるは我を信ずるは我を信ずるに非ず我を遣しゝ者を信ずるなり
四五 又われを見は我を遣しゝ者を見なり
四六 我は光にして世に臨れり凡て我を信ずるをして暗に居ざらしめん爲なり
四七 人もし我が言を聞て守らざるとも之をさばかず我來しは世をさばかんために非ず世を救んため也
四八 我を棄わが言を納ざるを審判ありち我いひし言をはりの日これを審判すべし
四九 蓋われ己より言に非ず我を遣し父わが言べきこと我かたる可ことを命じ給へる
五十 その命じ給ふ所はち永生なるを我しる是故に我いふ所は父の給ふまに言るなり
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日本聖書協會「新約聖書」改譯(大正六年)で見てみましょう
ヨハネ傳iケ書第一二章
四四 イエス呼はりて言ひ給ふ『われを信ずるは我を信ずるにあらず、我を遣し給ひしを信じ、
四五 我を見るは我を遣し給ひしを見るなり。
四六 我は光として世に來れり、すべて我を信ずるの暗Kに居らざらん爲なり。
四七 人たとひ我が言をききて守らずとも、我は之を審かず。夫わが來りしは世を審かん爲にあらず、世を救はん爲なり。
四八 我を棄て、我が言を受けぬを審くあり、わが語れる言こそ終の日に之を審くなれ。
四九 我はおのれに由りて語れるにあらず、我を遣し給ひし父みづから我が言ふべきこと、語るべきことを命じ給ひし故なり。
 我その命令の永遠の生命たるを知る。されば我は語るに、我が父の我に言ひ給ふままを語るなり』
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日本聖書協会「新約聖書」口語訳(昭和二十九年)で見てみましょう
ヨハネによる福音書第一二章
四四 イエスは大声で言われた、「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしをつかわされたかたを信じるのであり、
四五 また、わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである。
四六 わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。
四七 たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。
四八 わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。
四九 わたしは自分から語ったのではなく、わたしをつかわされた父ご自身が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったのである。
五〇 わたしは、この命令が永遠の命であることを知っている。それゆえに、わたしが語っていることは、わたしの父がわたしに仰せになったことを、そのまま語っているのである」。
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