四つの福音書による一つのイエス物語177
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書を一つのイエス物語に纏めました
マルコ→マタイ→ルカ→ヨハネの順にイエス物語は発展していきます
物語の初めから終りまでを331の話に分け話の一つ一つを四福音書の日本語訳を並べる形で紹介しています
福音書の日本語訳は英国聖書會社「新約全書」(明治三十九年発行)、日本聖書協會「新約聖書」改譯(大正六年)、日本聖書協会「新約聖書」口語訳(昭和二十九年)を並べて比較できるようにしました
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177
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「私の弟子を受け入れる者は報われる」
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上の言葉が四福音書の中でどう記されているか、記されていないか
ΚΑΤΑ ΜΑΡΚΟΝ  ΚΑΤΑ ΜΑΤΘΑΙΟΝ ΚΑΤΑ ΛΟΥΚΑΝ ΚΑΤΑ ΙΩΑΝΝΗΝ
馬可傳iケ書 馬太傳iケ書 路加傳iケ書 約翰傳iケ書
マルコ傳iケ書 マタイ傳iケ書 ルカ傳iケ書 ヨハネ傳iケ書
マルコによる福音書 マタイによる福音書 ルカによる福音書 ヨハネによる福音書
9;41 10;40〜42 13;18〜20
第九章四一節 第一〇章四〇〜四二節 第一三章一八〜二〇節
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英国聖書會社「舊新約全書」(明治三十九年発行)の「新約全書」で見てみましょう
馬可傳iケ書第九章
四一 爾曹をキリストに屬として我名の爲に一杯の水にても爾曹に飮するは我まことに爾曹に告ん其人は賞を矢はざる也
馬太傳iケ書第一〇章
四十 爾曹を接るは我を接る也また我を接るは我を遣しゝ者を接るなり
四一 預言なるを以その預言者を接るは預言の報賞をうけ義人なるを以その義人を接るは義人の報賞を受
四二 わが弟子なるをもて小き一人のに冷なる水一杯にても飮するは誠に爾曹にん必ず其報賞を失はじ
約翰傳iケ書第一三章
十八 我いひし所は爾曹を凡て指るに非ず我は我選しをしる然れども聖書に我と偕に食するわれに背て踵を擧しと錄されしに應せん爲なり
十九 その事の至らん時なんぢら我を信じてキリストとせん爲に其事の至ざる今より之を爾曹に
二十 誠に實に爾曹にん我遣すを接るは我を接るなり我を接るは我を遣しゝ者を接るなり
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日本聖書協會「新約聖書」改譯(大正六年)で見てみましょう
マルコ傳iケ書第九章
四一 キリストのたるによりて、汝らに一杯の水を飮まするは、我まことに汝らにぐ、必ずその報を失はざるべし。
マタイ傳iケ書第一〇章
 汝らを受くるは、我を受くるなり。我をうくるは、我を遣し給ひしを受くるなり。
四一 預言たる名の故に預言をうくるは、預言の報をうけ、義人たる名のゆゑに義人をうくるは、義人の報を受くべし。
四二 凡そわが弟子たる名の故に、この小きの一人に冷かなる水一杯にても與ふるは、誠に汝らにぐ、必ずその報を失はざるべし』
ヨハネ傳iケ書第一三章
一八 これ汝ら凡てのにつきて言ふにあらず、我はわが選びたるどもを知る。されど聖書に「我とともにパンを食ふ、われに向ひて踵を擧げたり」と云へることは、必ず成就すべきなり。
一九 今その事の成らぬ前に之を汝らにぐ、事の成らん時、わが夫なるを汝らの信ぜんためなり。
 誠にまことに汝らにぐ、わが遣すを受くるは我をうくるなり。我を受くるは我を遣し給ひしを受くるなり』
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日本聖書協会「新約聖書」口語訳(昭和二十九年)で見てみましょう
マルコによる福音書第九章
四一 だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。
マタイによる福音書第一〇章
四〇 あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。
四一 預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。
四二 わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」。
ヨハネによる福音書第一三章
一八 あなたがた全部の者について、こう言っているのではない。わたしは自分が選んだ人たちを知っている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしにむかってそのかかとをあげた』とある聖書は成就されなければならない。
一九 そのことがまだ起らない今のうちに、あなたがたに言っておく。いよいよ事が起ったとき、わたしがそれであることを、あなたがたが信じるためである。
二〇 よくよくあなたがたに言っておく。わたしがつかわす者を受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをつかわされたかたを、受けいれるのである」。
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