四つの福音書による一つのイエス物語124
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書を一つのイエス物語に纏めました
マルコ→マタイ→ルカ→ヨハネの順にイエス物語は発展していきます
物語の初めから終りまでを331の話に分け話の一つ一つを四福音書の日本語訳を並べる形で紹介しています
福音書の日本語訳は英国聖書會社「新約全書」(明治三十九年発行)、日本聖書協會「新約聖書」改譯(大正六年)、日本聖書協会「新約聖書」口語訳(昭和二十九年)を並べて比較できるようにしました
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神はそのひとり子を与えるほどに世を愛した
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上の言葉が四福音書の中でどう記されているか、記されていないか
ΚΑΤΑ ΜΑΡΚΟΝ  ΚΑΤΑ ΜΑΤΘΑΙΟΝ ΚΑΤΑ ΛΟΥΚΑΝ ΚΑΤΑ ΙΩΑΝΝΗΝ
馬可傳iケ書 馬太傳iケ書 路加傳iケ書 約翰傳iケ書
マルコ傳iケ書 マタイ傳iケ書 ルカ傳iケ書 ヨハネ傳iケ書
マルコによる福音書 マタイによる福音書 ルカによる福音書 ヨハネによる福音書
3;16〜21
第三章一六〜二一節
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英国聖書會社「舊新約全書」(明治三十九年発行)の「新約全書」で見てみましょう
約翰傳iケ書第三章
十六 それ~は其生たまへる獨子を賜ほどに世の人を愛し給へり此は凡て彼を信ずるに亡ること無して永生を受しめんが爲なり
十七 ~の其子を世に遣し給へるは世を審判んとに非ず彼に由て世を救んが爲なり
十八 彼を信ずるは審判れず信ぜざるに審判れたり蓋~の生たまへる獨子の名を信ぜざるに因
十九 罪の定まる所以は光世に臨しに人その行の惡に因て光を愛せず反て暗を愛すれば也
二十 凡て惡をなすは光を惡み其行を責られざらんが爲に光に就らず
二一 眞理を行ふに其行の顯れんが爲に光に就る蓋~に遵て行へば也
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日本聖書協會「新約聖書」改譯(大正六年)で見てみましょう
ヨハネ傳iケ書第三章
一六 それ~はその獨子を賜ふほどに世を愛し給へり、すべて彼を信ずるの亡びずして永遠の生命を得んためなり。
一七 ~その子を世に遣したまへるは、世を審かん爲にあらず、彼によりて世の救はれん爲なり。
一八 彼を信ずるは審かれず、信ぜぬは旣に審かれたり。~の獨子の名を信ぜざりしが故なり。
一九 その審判は是なり。光、世にきたりしに、人その行爲の惡しきによりて、光よりも暗Kを愛したり。
 すべて惡を行ふは光をにくみて光に來らず、その行爲の責められざらん爲なり。
二一 眞をおこなふは光にきたる、その行爲の~によりて行ひたることの顯れん爲なり。
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日本聖書協会「新約聖書」口語訳(昭和二十九年)で見てみましょう
ヨハネによる福音書第三章
一六 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
一七 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。
一八 彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。
一九 そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。
二〇 悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。
二一 しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。
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