四つの福音書による一つのイエス物語80
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書を一つのイエス物語に纏めました
マルコ→マタイ→ルカ→ヨハネの順にイエス物語は発展していきます
物語の初めから終りまでを331の話に分け話の一つ一つを四福音書の日本語訳を並べる形で紹介しています
福音書の日本語訳は英国聖書會社「新約全書」(明治三十九年発行)、日本聖書協會「新約聖書」改譯(大正六年)、日本聖書協会「新約聖書」口語訳(昭和二十九年)を並べて比較できるようにしました
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口は心の善し悪しの実であることを教える
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上の言葉が四福音書の中でどう記されているか、記されていないか
ΚΑΤΑ ΜΑΡΚΟΝ  ΚΑΤΑ ΜΑΤΘΑΙΟΝ ΚΑΤΑ ΛΟΥΚΑΝ ΚΑΤΑ ΙΩΑΝΝΗΝ
馬可傳iケ書 馬太傳iケ書 路加傳iケ書 約翰傳iケ書
マルコ傳iケ書 マタイ傳iケ書 ルカ傳iケ書 ヨハネ傳iケ書
マルコによる福音書 マタイによる福音書 ルカによる福音書 ヨハネによる福音書
12;33〜37 6;43〜45
第一二章三三〜三七節 第六章四三〜四五節
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英国聖書會社「舊新約全書」(明治三十九年発行)の「新約全書」で見てみましょう
馬太傳iケ書第一二章
三三 或は樹をも善とし其果をも善とせよ或は樹をも惡とし其果をも惡とせよ夫樹は其果に由て知るなり
三四 あゝ蝮の裔よ爾曹惡にして何で善を言ことを得んや夫心に充るより口に言るゝ者なれば也
三五 善人は心の善庫より善ものを出し惡人はその惡庫より惡ものを出せり
三六 われ爾曹にん凡て人のいふ所の虛言は審判の日に之を訴へざるを得じ
三七 それ爾その曰ところの言に由て義とせられ又其いふ言に由て罪ありとせらる
路加傳iケ書第六章
四三 それ惡果を結は善樹に非ず又善果を結は惡樹に非ず
四四 凡の樹はその果に因て識る荊棘より無花果を採ず亦��藜より葡萄を採じ
四五 善人は心の善庫より善を出し惡人はその惡庫より惡を出す蓋心に充るより口に言る
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日本聖書協會「新約聖書」改譯(大正六年)で見てみましょう
マタイ傳iケ書第一二章
三三 或は樹をも善しとし、果をも善しとせよ。或は樹をも惡しとし、果をも惡しとせよ。樹は果によりて知らるるなり。
三四 の裔よ、なんぢら惡しきなるに、爭で善きことを言ひ得んや。それ心に滿つるより口に言はるるなり。
三五 善き人は善き倉より善き物をいだし、惡しき人はしき倉より惡しき物をいだす。
三六 われ汝らにぐ、人の語る凡ての虛しき言は、審判の日にさるべし。
三七 それは汝の言によりて義とせられ、汝の言によりて罪せらるるなり』
ルカ傳iケ書第六章
四三 惡しき果を結ぶ善き樹はなく、また善き果を結ぶ惡しき樹はなし。
四四 樹はおのおの其の果によりて知らる。茨より無花果を取らず、野荊より葡萄を收めざるなり。
四五 善き人は心の善き倉より善きものを出し、惡しき人は惡しき倉より惡しき物を出す。それ心に滿つるより、口は物言ふなり。
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日本聖書協会「新約聖書」口語訳(昭和二十九年)で見てみましょう
マタイによる福音書第一二章
三三 木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとせよ。木はその実でわかるからである。
三四 まむしの子らよ。あなたがたは悪い者であるのに、どうして良いことを語ることができようか。おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。
三五 善人はよい倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。
三六 あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。
三七 あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである」。
ルカによる福音書第六章
四三 悪い実のなる良い木はないし、また良い実のなる悪い木もない。
四四 木はそれぞれ、その実でわかる。いばらからいちじくを取ることはないし、野ばらからぶどうを摘むこともない。
四五 善人は良い心の倉から良い物を取り出し。悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。心からあふれ出ることを、口が語るものである。
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