四つの福音書による一つのイエス物語38
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書を一つのイエス物語に纏めました
マルコ→マタイ→ルカ→ヨハネの順にイエス物語は発展していきます
物語の初めから終りまでを331の話に分け話の一つ一つを四福音書の日本語訳を並べる形で紹介しています
福音書の日本語訳は英国聖書會社「新約全書」(明治三十九年発行)、日本聖書協會「新約聖書」改譯(大正六年)、日本聖書協会「新約聖書」口語訳(昭和二十九年)を並べて比較できるようにしました
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038
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子を信じる者は生きると告げる
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上の言葉が四福音書の中でどう記されているか、記されていないか
ΚΑΤΑ ΜΑΡΚΟΝ  ΚΑΤΑ ΜΑΤΘΑΙΟΝ ΚΑΤΑ ΛΟΥΚΑΝ ΚΑΤΑ ΙΩΑΝΝΗΝ
馬可傳iケ書 馬太傳iケ書 路加傳iケ書 約翰傳iケ書
マルコ傳iケ書 マタイ傳iケ書 ルカ傳iケ書 ヨハネ傳iケ書
マルコによる福音書 マタイによる福音書 ルカによる福音書 ヨハネによる福音書
5;24〜30
第五章二四〜三〇節
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英国聖書會社「舊新約全書」(明治三十九年発行)の「新約全書」で見てみましょう
約翰傳iケ書第五章
二四 誠に實に爾曹にん我言をき我を遣しゝ者を信ずるは永生を有かつ審判に至らず死より生に遷れり
二五 誠に實に爾曹にん死し者~の子の聲を聞とき來らん今その時になれり之を聞は生べし
二六 それ父は自ら生を有り其如く子にも賜て自ら生を有たせたり
二七 また人の子たるに因て之に審判するの權威を賜へり
二八 之を奇と爲こと勿そは墓に在みな其聲を聞て出るとき來んとすれば也
二九 善事を行しは生を得に甦り惡事を行しは審判を得るに甦るべし
三十 われ何事をも自ら行ふこと能ず聞ところに遵ひて審判す我審判は公平そは我わが意を行ふことを求ず我を遣し父の意を行ふことを求ればなり
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日本聖書協會「新約聖書」改譯(大正六年)で見てみましょう
ヨハネ傳iケ書第五章
二四 誠にまことに汝らにぐ、わが言をききて我を遣し給ひしを信ずる人は、永遠の生命をもち、かつ審判に至らず、死より生命に移れるなり。
二五 誠にまことに汝らにぐ、死にし人、~の子の聲をきく時きたらん、今すでに來れり、而して聞く人は活くべし。
二六 これ父みづから生命を有ち給ふごとく、子にも自ら生命を有つことを得させ、
二七 また人の子たるに因りて審判する權を與へ給ひしなり。
二八 汝ら之を怪しむな、墓にあるみな~の子の聲をききて出づる時きたらん。
二九 善をなししは生命に甦へり、惡を行ひしは審判に甦へるべし。
 我みづから何事もなし能はず、ただ聞くままに審くなり。わが審判は正し、それは我が意を求めずして、我を遣し給ひしの御意を求むるに因る。
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日本聖書協会「新約聖書」口語訳(昭和二十九年)で見てみましょう
ヨハネによる福音書第五章
二四 よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。
二五 よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。
二六 それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。
二七 そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった。
二八 このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、
二九 善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。
三〇 わたしは、自分からは何事もすることができない。ただ聞くままにさばくのである。そして、わたしのこのさばきは正しい。それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされたかたの、み旨を求めているからである。
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