ギリシャの神話
『ギリシャ・ローマ神話と傳說』(中島孤島編、昭和九年)からギリシャ神話をいくつか抜き出してみました(下のハイパーリンクをクリックするその言葉に飛びます)
開闢神話
神々の世代
人間創造の神話
最初の人間
人間の保護者プロメテウス
最初の女性パンドラ
四つの時代
大洪水
新らしい世界
開闢神話
ギリシヤの天地開闢說は、古來種々の傳承があつて、人によつて區々であるが、併し大體からいつて、 ユダヤの神話にあるやうな、世界創造說ではなくて、支那の神話に見えるやうな、天地開闢說であつた。 
卽ちこの世界は造られたものではなくて、幾つかの世代の変化を經て、次第に現在の状態に成つたものである。
従つて神々も、世界よりさきに存在したのではなくて、神々自身も、また、この世界といふ一家族のうちに、生れて來たものである。 
天地開闢の神話は、それを語り傳へた詩人によつて、まちまちであつた。
ホメロスによれば、口で尾をくはへた蛇のやうに、地と陸とをとりまいてゐる、廣大無邊の大河オケアノスが、萬物の本源でまたすべての神々の父であつた。
また他の傳說によると、『夜』と『闇』が世界の根源で、そのうちから、 『光』が生れたといつてゐる。
更に詩人オルフェウスが傳へたといはれる、第三の說によると、世界の始めには、無始無終の『時クロノス』があつて、それから『カオス』といふ底なしの淵が生れ、その深淵の中で『夜』と『霧』と『精氣アイテル』が育くまれた。 
そのうちに、『時』は『霧』を動かして、中心なる『精氣』のまはりを、獨樂のやうに廻轉させたので、世界は大きな卵のやうな塊團になり、それがまた廻轉の速力で、まつ二つに割れて、一つは、のぼつて天となり、一つは、下つて地となつた。
そしてその卵の中からは、『愛』をはじめ、いろいろな不思議なものが生れたといふのである。
併し世界と神々の起原を述べたものゝうちで、一番まとまつてゐるのは、ヘシオドスの『テオゴニヤ』[神統記]であつた。
ヘシオドスは、この一篇のはじめに、天地開闢の神話を歌つてゐる。
『テオゴニヤ』によると、萬物のはじめには『カオス』があつた。
次に廣い胸をもつた『ガイヤ』[地]と地の底なる暗黑の『タルタロス』と不死の神々のうちで一番美しい『エロス』[愛]が出來た。
『カオス』は 『口をあいた場所』といふ意味で、その内部は、眞暗な霧で充たされてゐた。
『カオス』の次には、『地』が出來て、雪をいたゞくオリムポスの絶頂に棲むべき神々の安全な座位となつた。
けれどもまだ空も海も、山々もなければ、晝や、夜もなかつた。
堅い地のほかには、何物もなかつた。
その次に現はれたのは、『エ ロス』であつた。
『エロス』は男性と女性とを結びつけて、新らしい世代を生み出させる愛の力であつた。 
次に『カオス』からは、地下の闇なる『エレボス』と、遠い日沒の國に住んでゐる地上の闇なる『夜ニツクス』が生れた。
『エロス』は『夜』と『エレボス』とを結びつけて、その間に、二人の子を生ませた。
天の光 なる『精氣』と地の光なる『晝ヘメラ』である。
次に『ガイヤ』卽ち母なる地は、『エロス』と接觸して、『ウラノス』[星の多い天]と廣大な山々と『ボントス』[荒い海]を生む。 
『ウラノス』と『ガイヤ』[天と地]は、この世界の最初の主宰者として、次の世代の神々の父母となつた。 
ヘシオドスの記事は、かういふ幼稚なるのであるが、併しギリシヤの開闢神話のうちでは、これらが代表的なものである。
勿論、この開闢說のうちに、どれほど深い哲學的思想の芽が包まれてゐるかといふやうなことは、ここでは我々の關係した問題ではない。
我々はたゞ、世界の起原に關するギリシヤ民族の神話をうかがふだけで、滿足しなくてはならぬ。  
神々の世代
ギリシヤの神話は、この世界を支配する神々の世代を、ほゞ三つに分けてゐる。
天地萬物が生じて、第一にこの世界の主宰者となつた神は、ウラノスとガイヤであつたが、それにつゞいて、クロノスと レアの治世が、永い間績いた後、最後に、ゼウスとヘラが、この天地の主宰者となつた。 
ウラノスとガイヤの系統には、チタンと、キクローペとケンチマネといふ三つの神族があつた。
このうち、チタン族は、後の神族の敵となつて、この世界に大動亂を引起したので、ギリシヤの神代史のうちで、いつも争闘の渦中にとびこんで、憎惡と死闘とを煽るものは、この一族であつた。
神話學者の間には、火山の爆發とか、地震とかいふ、地球上の大變動を人格化したものと解釋されてゐる。
ホメロスの詩にあらはれるチタン族は、イアペトスとクロノスの二つだけであるが、ヘシオドスは、十三のチタン族の名を擧げてゐる。
卽ち、オケアノスとテチス、ヒペリオ ンとテイヤ、コイオスとフォイべ、クレイオスとエウリビヤとイヤペトス、テミスとムネモシネ、クロノスとレアである。 
次にキクローペ族は、隻眼の大怪物で、その名をブロンテス、ステロペス、アルゲスといひ、雷鳴と電光と落雷の人格化であつた。 
最後に、ケンチマネ族は、百本の手をもつた怪物で、ブリアレオス、ギエス、コットスといひ、大地を震はす海の激動や、怒號や、山のやうな波濤の恐怖を、人格化したものである。 
ウラノスは、この三神族のうち、後の二族を怖ろしいものに思つて、生れるとすぐ、母なる大地の底のタルタロスへ投げ込んで、そこへ封じこめてしまつた。
母のガイヤは、この無情な行動を深く憤つて、ウラノスに對して、復讐を企て、チタン族の助けを求めたが、クロノスのほかは、だれも母に身方をするものはなかつた。
ガイヤは、そこで、クロノスに、1つの鋭利な鎌を與へて、ウラノスを待伏せさせ、不意に襲つて、深傷を負はせた。 
その時、ウラノスのからだから流れた血は、化生して、蛇の髪をもつた復讐の三女神エリニエスや、新らしい大怪物巨人族となり、また海に落ちたものは、美の女神アフロヂテとなつた。 
ウラノスについては、これ以上、何事も傳へられてゐない。
ギリシヤ人は、ウラノスを、神に祀らなかつた。
從つてギリシヤ神話に於けるウラノスの地位は、たゞ自然界の基本的な力を代表する神々の父、と いふだけに過ぎなかつた。 
かうしてウラノスの時代は過ぎて、新らしいクロノスの世となつたが、クロノスは、父にとつて代つたといふ事情があるので、父のたゝりだけでも、永續しないやうな運命を帯びてゐた。 
一方では、また、ウラノスの系統を引いた神々から、自然と、クロノスとは異系の、多くの神々が生れた。
オケアノスとテチスの間には、無數の河神や、泉と森の少女ニムフェが生まれ、つヾいて、 海の二ムフェだの、海や、陸の、いろいろな怪物が出來た。
ヒペリオンとテイヤとは、『日』と『月』と『暁』 の兩親となり、暁の女神は、いろいろな風と、『暁の明星』の母となつた。
またイヤペトスの子には、廣大無邊の天を支へてゐるアトラスと、人間の創造に力を盡したプロメテウス、エヒメ テウスの兄弟があつた。
クロノスは、妹のレアと共に、天地を支配して、その間に、ヘスチヤ、デメテル、ヘラの三女神と、ハデス、ボサイドン、ゼウスの三男神を生んだ。
クロノスの治世は、この天地が、まだ罪と汚れを知らなかつた、いはゆる黃金時代で、疾病といふことも知らなければ、老いるといふこともなく、野山には、さまざまの果實が、一面に實つてゐるから、働いて食ふといふ心配もなく、天地間の萬物が、無限の幸福と快樂とを味はつてゐた時代だと傳へられる。
この黃金時代は、久しいこと績いたが、その間に、クロノスは、自分の生んだ子が、 いつか、自分に代つて、この天地の主宰者になるといふことを知つてゐたので、子供が生れるや否や、みんな呑んでしまつたが、俳し最後に、ゼウスの生れる時に、母のレアは、クレテの島へ行つて、生れた赤子を、一つの洞窟の中へ隱し、大きな石を、產衣の中へ包んで、クロノスに渡したので、クロノスは氣がつかずに、一口に、それを呑み込んでしまつた。
かうして危い命を助けられたゼウスは、クレテ島 のニムフェらに保護されて、アマルテイヤという山羊の乳で育てられたが、ニムフェらは赤兒が泣くたびに、鐘や太鼓を鳴らし、軍のまねごとをして、泣き聲をクロノスの耳へ入れないやうにしたと傳へられる。
そのうちに、ゼウスは成長すると、まづ祖母のガイヤの助けを借りて、クロノスの口から、呑み込んだ同胞らを、吐き出させた。
その時、第一に出たのは、ゼウスの身代りになつた大石で、これは 後に神託で有名になつたデルフォイの神殿に保存された。
それから順々に、ほかの五人の同胞らが吐き出されて、母のレアの手へ戻された。 
そこで天上界に、第二の革命が起つた。
ゼウスは、その同胞の神々と共に、オリムボスの山上へ立籠ると、多くのチタン族はクロノスを助けて、オトリスの山に據つて、十年の間、戰爭を續けた。
この戰爭は、自然力の全部を、闘争の渦中に捲きこんで、この世界の存在を脅かしたほどに、猛烈なものであつた。
同時に、他の一方では、神と惡魔、正義と暴力との戰ひであつた。
この間に、チタ ン族のうちでも、テミスとムネモシネ[公正と記憶]とは、暴力の身方になることを避けて、智力と秩序の代表たるゼウスの身方につき、またプロメテウス [先見]も、終局の勝利がゼウスにあることを豫知し て、オリムポスに走つた。 
戰爭は殆んど果てしがつかなかつた。
ゼウスは、終に、チタン族の暴力を征服するには、他の暴力をかるほかはないと悟つた。
そこでゼウスは、再び祖母ガイヤの力を借りて、ウラノスが、地底のタルタロスへ封じこめて置いた、キクローペや、ケンチマネの一族を解放して、身方につけ、キクローペの手から、 雷電を譲り受けて、先頭に立つて、敵に向ふと、三個のケンチマネは、三百本の手で、岩をつかんでは、 敵に向つて、雨霰と投げかけた。
その時、オリムポスの山上から投げかける雷電のために、周圍の地は、 燒けたゞれ、河海の水は沸騰して、火のやうな霧は、オトリスの山を包み、チタン族は、絶えず閃く電光のために、悉くその視力を失つた。
同時に、ケンチマネは、地と海を震はして、突進したので、さすがに 勇猛なチタン族も、電光に燒かれ、岩の下に埋められて、とうとうゼウスの軍に降服してしまつた。
そこでゼウスは、ケンチマネに命じて、クロノスをはじめ、自分に敵つたチタン族を、タルタロスの底へ幽閉し、ケンチマネをして監視させた。 
神々とチタン族との戰闘の神話は、世界の起原に關するギリシヤ神話のうちでも、恐らく最古の傳說に属するものであらう。
この戰闘の舞臺となつたテッサリヤの地勢を見れば、何人にも想像されることではあるが、そこには、自然の激變の跡が、いちじるしく殘つてゐる。
テッサリヤの平原そのものが、あの山壁を裂いて、テンペの大谿谷を作り出した、大地震の產物であつた。
そしてオリムボス山とオトリス山とは、丁度この大谿谷を挟んで、相對峙する大城壁のやうな形勢をして、その間の谿谷には、處々に巨大な漂石が、ゼウス族とチタン族の間に、投げかはされた巌石のやうに、まきちらされてゐるのである。 
クロノスの黃金時代は、かうして永久に過ぎ去つた。
クロノスの神話については、互に矛盾した二つの性質が附與されてゐる。
一方では、この時代を、地上には、永への春がつゞいて、人間が無限の幸福を享樂した、黃金時代だと說くと共に、他の一方では、その治世が、旣に父のウラノスに対する反逆にはじまつたやうに、その治世を通じて、權謀術數によつて支配された時代のやうにも說いてゐる。
この第二の傳說によると、クロノスは、結局正義の代表者たるゼウスに對して、邪曲の代表者と見られるのである。
併しさういふ道德的の矛盾を除外して見れば、この時代は、後の天地萬物の秩序が、次第に整つて來た時代であつた。 
ゼウスは、終に、その强敵チタン族を征服した。
けれどもゼウスの主權は、まだ本當に安定するところまではゆかなかつた。
ガイヤは、一旦は、孫のゼウスを助けて、クロノスとチタン族を征服させたけれども、いよいよゼウスが勝つて見ると、さすがに、自分の生んだチタン族の沒落を憐むやうな心持も出て、ゼウスに對して、またまた陰謀を企てるやうになつた。 
ガイヤには、チタン族のほかに、チフォイオスといふ子があつた。
チフォイオスは、同胞のチタン族よりは、一層怖ろしい怪物で、どうしても、全能のゼウスに反抗すべき運命をもつてゐた。
このチフォイオスは、一百の蛇の頭と、水のやうに輝く目と、眞黑な舌をもち、その一方の口からは、同時に蛇や、牡牛や、獅子や、犬や、その他、あらゆるものゝ聲を立て、咆吼するのであつた。
この怪物が、 母のガイヤの命を受けて、ゼウスに向つて戰ひを挑んで來たが、ゼウスはすぐに、その雷電をあびせかけて、打ちたふし、チタンらと一しよに、タルタロスの底へ投げこんでしまつた。
併しこの戰爭では、天も地も、これがために震撼して、タルタロスの底へまで、響きわたつた。
そしてゼウスの雷火に包まれながらも、この怪物の吐き出す火の息のかゝつた地は、まるで白蠟かなにかのやうに、どろどろに鎔けたと傳へられてゐる。
この怪物は、今もなほ、タルタロスの底で、折々怖ろしい唸り聲や、泣き聲を立てる。
そのたんびに噴火山の口から、怖しい火の舌を吐き、或は怖しい熱風を起して、地上の草木を燒き拂ふのである。
チフォイオスは、猛烈な旋風の人格化であつた。 
チフォイオスの反亂につゞいて、巨人族の反亂があつた。
巨人族といふのは、ウラノスの血から生れた巨大な怪物である、傳說によると、『きらきらした鎧を着て、手に長槍をもつた魁偉な巨人』であつた。
巨人族のうちでも、特に雄强なるのは、アルキオネス、バラス、エンケラドス及び火の王ポルフィリオンであつた。
この巨人族との戰ひでは、オリムポスの諸神のうちでも、ヘラとアテーネの二女神が、首功を樹て、またゼウスの血を受けた英雄ヘラクレスが、その强弓を曳いて、敵を悩ましたといふことになつてゐる。
この巨人族は、自然界の勢力の人格化であつた、チタン族とは違つて、俗間信仰に根據をもつた妖魔であつた。
従つて巨人族は、チタン族や、キクローペや、チフォイオスよりは、一層人間に近く、古い彫刻では、獸の皮を着、岩や棍棒を武器とする蠻族の姿で、あらはされてゐるが、後には、胴から下は、人間の形體を失つて、脚のかはりに、頭をもつた二匹の蛇をつけるやうになつた。
巨人族は、恐らくある地方に特有な俗間信仰から出て、一般の神話の領域に、侵入して行つたものらしく、その性質には、有史前の獰猛な蠻族を暗示するところがある。
人間と同樣に、『土から生れた』という形容詞をつけられてゐるのも、その一つの證據である。
とにかく、この巨人族も他の二族と同樣に、ゼウスのために、全く征服されて、タルタロスの底へ葬られてしまつた。 
そこで天地の秩序は、始めて定まり、ゼウスは、クロノスに代つて、天地の主宰者となつた。
この時ゼウスは、神々の會議を開いて、それぞれに、その支配を定めた。
ボサイドンは、オケアノスに代つて、海を支配し、ハデスは、暗黑な地下の世界と、タルタロスの王となり、ヘラは、ゼウスの妃として、オリムﾎﾟスの女王となつた。 
人間創造の神話
最初の人間
上に述べて來たやうな天地開闢說や、神々の系統は、諸方に擴布した、種々な民間信仰を基礎として、 
古代の神話詩人の想像で、組織立てられたもので、そのうちには、種々雑多な要素が取り入れられ、又時代の經過に伴つて、種々の性質にも、變化のあつたことは、明らかである。
かういふ神々の世界へ、いつ、 いかにして、人間が現れたか、といふ問題についても、地方により、人によつて、種々の解答が與へられてゐる。
ピンダロスの詩には、『神と人とは同じ種族で、同じ母の懐から生れ出た』といふ意味が、歌はれてゐた。
同じ母といふのは、『ガイヤ』卽ち『母なる地』で、人も神も、丁度草木の生えるやうに、地の母の懐から生れたといふのである。
この種族の傳說は、ギリシヤの諸方にあつて、或は、蛇のやうに、地から這ひ出したといひ、或は、湖水から現れたといひ、或は又、檞の木から生れたといつてゐる。
又ホメロスは、ゼウスを以て『神々と人間の父』と呼び、諸種族の傳說に、屡々その祖先が、神の子であることを、誇りとしてゐる。
丁度、この二つの說の中間に位するものは、ヘシオドスのバンドラ物語の中に現れた、人間創造の傳說である。
卽ち最初の人間は、土から自然に生じたのでなく、又神から生れたのでもなく、丁度、土器を造る人が、粘土で物の形を造るやうに、神々の手で、土から造り上げられたといふのだ。
後になつて、人間創造の事業を、專らチタン族の神、ブロメテウスに歸するやうになつたのは、ブロメテウスが、初めて人間に火を與へた神として、地上の文化の保護者とされる所から來たのであらう。 
人間の保護者プロメテウス
プロメテウスとエピメテウスの兄弟は、前に、大神ゼウスの一族に征服された、チタン族の神であつた。 
が、ブロメテウスは、非常に利口の神であつたから、自分の一族が、とてもゼウスの敵でないことを見こして、弟と一しよに、ゼウスの身方についた。
それ故、ゼウスが天地の主宰者となつたのち、この兄弟の手柄を思つて、地上のいろいろな生物を造る役目を、この二神にいひつけたのであつた。 
そこで二神は、まづいろいろな鳥や獸を造つた。
そして鳥には、羽を與へ、獸には、毛皮を與へ、牛には、堅い角を與へ、馬には、よく走る足を與へ、狐には、わる賢こい智恵を與へ、獅子と熊には、鋭い牙と爪を與へ、蛇には、毒を與へた。 
最後に、二神は、土をとつて、水でしめし、オリムポスの神々の姿に似せて、人間を造つた。
かうして出來上つた人間は、他の動物から見ると、くらべものにならないくらゐ、立派であつた。
他の動物は、地上を這つて、下を見つめてゐるが、人間だけは、眞直ぐに立つて、天を見あげてゐるのであつた。 
けれども他の動物が、羽や毛に包まれてゐる中で、人間はまだ裸體で、そこに立つてゐた。
牡蠣や蛤でさへ、身をかくす殻をもつてゐるのに、人間には、身をまもるものが、何一つ無かつた。
けれども兄弟の神は、この時、氣がついて見ると、何もかも、ほかの動物に與へてしまつたので、もう人間にやるやうなものは、一つも殘つてはゐなかつた。 
兄弟の神は、困つたやうに、顔を見合せて立つてゐた。
『どうしませう、やるものがなくなつてしまひました。』
と弟のエピメテウスがいつた。
『一つもないのか。』
と兄のプロメテウスが聞きかへした。
『えゝ、一つもありません。』
と弟が答へた。
 二人は、だまつて、その邊を見まはしてゐたが、何も見あたらなかつたので、思はず顔をあげて、天の方を眺めた。
そこには、眞晝の太陽がまぶしいばかりに輝いてゐた。 
『おゝ、さうだ!』
とプロメテウスは、ぼんと膝をうつて、叫び出した。
『いいものをとつて來てやらう。ちよいとまつてくれ。』 
『どこへいらつしやるのです?』
と弟のエピメテウスは、びつくりしたやうに、兄の顔を眺めた。 
『まあ、いゝさ。ぢきに分るから。』
と答へるや否や、ブロメテウスは大きなからだをうかばせて、オリムポス山の方角をさして、飛んで行つた。
オリムポスの雲に包まれた山上には、大神ゼウスの宮殿があつた。
プロメテウスは、オリムポスの山をのぼると、ぢきにゼウスの宮殿へいつて、しづかに玉座の前へ進んだ。 
『一つだけ、お願ひがあつて、まゐりました。
どうぞ人間に火を分けてやつて下さいまし。』
プロメテウスは、頭を地にすりつけながら、かういつて歎願した。
ブロメテウスは、心のうちで、これほどに願つたら、まさか、ならないといはれることはあるまい、と思つてゐた。
けれどもゼウスは、どう しても、この願いをゆるすとはいはなかつた。 
これより以前、ペロポンネソスのシキオンで、神々と人間との會合があつて、その席上で、犧牲に供へた肉の分前を定めたことがあつた。
その時、ブロメテウスは、人間のために、利益を計らうといふ考へから、わざと詐術を用ゐて、犧牲の牛を二つに分け、一方には、上等な肉を皮に包んで、その外部 を、醜い臓腑で蔽ひ、一方には、骨と筋を集めて、その上を、巧みに薄い肉片と脂肪でくるんでおいた。
ゼウスはすぐに、この奸策を看破り、その裏をかいて、わざと脂肪で包まれた骨の方をとつた。
ゼウスは 今、この事をいひ出して、神を試みようとした、人間の罪を責めるのであつた。
『ほかのことならば、なんでも聞いてやるが、そればかりは、ゆるされない。
神の火を人間に與へるのは、人間をいよいよ増長させるやうなものだ。
ほかの動物と同じやうに、穴の底にふるへさせておかなく てはならない。』
かういつて、ゼウスはすげなくブロメテウスの願いをしりぞけた。
プロメテウスは、失望したやうに、だまつて、ゼウスの前をさがつた。
プロメテウスが地へ下ると、弟はまちかまへて、樣子を尋ねた。 
『われわれの造つた人間には、火をやらう。
あゝして、鳥獸にもおとつた樣子をさせて、ふるへさせておくわけにはゆかない。』 
『そんなことをしても、いいんですか。
ゼウスのおとがめをうけたら、どうなさいます?』
と弟は心配 さうにいつた。
『なに、かまはない。わるかつたら、おれが罪を被るばかりだ。まあ、見てゐろ。』 
かういつて、ブロメテウスは時の來るのを待つてゐた。 
ある朝、プロメテウスは、海邊を歩いてゐると、よくのびた葦の莖が目にはいつた。
そばへよつて、一 本を折りとつて見ると、中は管になつてゐて、そこには、やはらかな髄が、一ばいにつまつてゐた。 
『これはうまいものがあつた。』
とブロメテウスは、口のうちで、つぶやいた。
そして折りとつた莖をもつて、オリムポスの山上を目がけて、一とびに、飛んで行つた。
その時、太陽は、もえあがる火の車をまはして、東の方から、騙けて來た。
ブロメテウスは、ひとの見ない間に、そばへかけよつて、手にもつた葦の莖を、焰の中へさし入れると、やはらかな髄は、すぐに火を引いて、ひらひらと燃えあがつた。
その火を、管の中にかくして、ブロメテウスは、急いで地へくだつた。
ブロメテウスは、弟のそばへ來ると、手にもつた韋を、得意げに見せて、かういつた。 
『さあ、いそいで、木の枝を集めてくれ。
こゝに神の火がある。
人間には、これ以上の贈りものはない。
これさへあれば、ほかの動物をしたがはせて、世界の主人になれるだらう。』 
エピメテウスは、すぐにかけまはつて、澤山の木を集めて來た。
プロメテウスは、手にもつた火を、それにうつすと、かはいた枝は、すぐに火を引いて、ばつと燃え上つた。
そこで兄弟は、洞穴の中にふるへてゐる人間を呼んだ。 
『さあ、こゝへ來て、あたるがいゝ。』
その時には、もう日がしづんで、新らしく生れた人間は、闇と寒さの中でぶるぶるとふるへてゐたが、 ふいに、明るい、氣持ちのいゝ火が、洞の外で、ばちばちと燃え出したのを見て、急いでそばへよつて來た。
そして火の方へ手を出して、うれしさうに、笑つてゐた。 
『これはあそびごとではない。
お前はこれをつかひこなさなくてはならないのだ。
奴隷のやうに、つかはなくてはならないのだ。
うまくつかひさへすれば、お前はこの世界の主人になれるのだ。』 
ブロメテウスは、かういつて、人間を誡めるのであつた。 
そこで人間は、よろこんで、ブロメテウスの言葉に從ひ、敎へられた通りにして、この大切な火を保存 して行つた。
この時から、人間は、最早、闇と寒さとをおそれないやうになつた。
恐ろしい獸も、もう人間のそばへは、近よらないやうになつた。
寒い時は、火のそばへよつて、身を暖ため、夜になれば、盛んに火をたいて、闇を照した。
もはや冬が來ても、鳥のやうに、暖かい南の國へとんでゆく必要もなく、獸のやうに、木の洞の中で、眠つて暮すにも及ばなかつた。
人間はぢきに、小屋を立て、住むことをおぼえた。
そして小屋の中には、爐を作つて、そこで暖かい火をたいた。
すぐにまた食物を火であぶつて、料理することを学んだ。
後には、いろいろな鑛石をとかして、いろいろな道具を造ることもおぼえた。 
彼れはまた、金と銀の鑛石を溶かして、それを石で打ちのばして、指輪とか、首輪とか、耳輪とかいふものにして、からだへつけた。
次には、銅と錫を一しよに溶かして、靑銅を造つた。
そしてそれを打ちのばして、槍の穂先を造り、長い棒へつけて、猛獸に向つた。
獅子の牙や熊の爪も、この新らしい武器をもつた人間を、どうすることも出來なかつた。
人間はまた、青銅をまげて、釣針を造り、海の底に棲む魚を釣りあげた。
飛ぶ鳥や、走る獸をとるためには、弓を造つて、矢の先へ、青銅の矢尻をつけた。
人間はなほ、靑銅を用ひて、斧や、鋤のやうな農具も造れば、貨幣も造つた。
最後に、人間が、鐵の鑛石を溶かし て、青銅よりも一層丈夫な、一層便利な道具を造ることを學んだのは、それからずつと後のことであつた。 
かうして人間は、天の火を手に入れると共に、その不思議の力によつて、ぢきに獸の状態をはなれ、空と地と水の、一切のものを征服して、次第に、明るい、幸福な世界を打ち建てて行つた。 
最初の女性パンドラ
『新らしき黃金のみ代は來らん、
古きそれよりは美はしく、
古きそれよりはすぐれたる、 
新らしさ黃金のみ代は來らん。』
新らしく生れた人間は、暖かい火にあたりながら、うれしさうに、かう歌つた。
そして涙を流して、この火を授けてくれた、ブロメテウス兄弟の徳を讃美するのであつた。
けれどもその時には、まだこの地上には、たゞひとりの男がゐるばかりであつた。
かれのそばには、二、三匹の獸が集まつて來た。
かれは馬を馴らして、その背中へのり、牛を馴らして、畑を鋤かせ、犬を飼つ て、狩につれて行つた。
けれども獸には言葉が分らない。
吠えたり、うなつたりすることは出來ても、口をきくことは出來なかつた。
であるから人間は、廣い、美しい世界の中で、淋しく暮してゐた。
ある日、ゼウスは、天上から、はるかに地上を見おろすと、ふと、一すぢの煙が、紫色に立ちのぼつてゐるのが見えた。
それを見ると、大神はすぐに、プロメテウスが、自分の許をも受けずに、天の火を盗ん で人間に與へたことをさとつた。
ゼウスはそばにゐた神々をよんで、地の方を指さしながら、何げなく、かういつた。
『あれをごらん。あすこに立つて歩いてゐるものがあるだらう。分つたかな?』
『はい、分ります。』
と神々が答へた。
『あれは、ひとりぎりで、いかにも淋しさうだ。
つれをひとり、送つてやらうと思ふが、どうだらう?
あれは男だから、女をひとり、こしらへてやらう。
お前たちも、めいめいに、何か一つづゝ、贈物をしてもらひたい。』
かういつて、ゼウスはすぐに、鍛冶の神ヘファイストスを呼んで、ひとりの女を造らせた。
そこでヘファイストスは、土と水をこねあはせて、オリムポスの女神に似せた、一つの人形を造りあげ た。
それを見ると、美の女神アフロヂテが、一番さきに、そばへよつて、その頬と唇へ口をつけた。
見るまに、人形の顔には、若々しい血の色がさして、薔微の莟のやうな唇を、ばつと聞いた。
つゞいて、アテーネの女神は、その額に、そつと手をあてた。 
『わたしの贈物は智惠です。
この人は、紡いだり、織つたりすることが、上手になるでせう。
またいろいろな家事や、子供をそだてることも、上手になるでせう。』 
かういつて、後へさがると、日の神アポロンが進んで、その唇と指に手をふれた。
『わたしは音樂の才を授けよう。
この女は、いゝ聲でうたふやうになるだらう。
そして葦の莖をふいたり、糸をはぢいたりして、いゝ音色を出して、夫の心をなぐさめることが出來るだらう。』 
アポロンにかはつて出たのは、軍神アレスであつた。 
『この女に軍をさせるわけにはゆかないが、いろいろな軍の種子をまくことは出來るだらう。
わしの贈物はこれつきりだ。』
今度は、鍛冶の神ヘファイストスが、跋足をひきながら、前へ進んだ。 
『わしはこの女の血の中へ、鐵を入れてやらう。
さうしておけば、どんな困難にも、どんな心配にも、たへられるだらう。
男よりは、かよわい、小さなからだはしてゐても、男よりは辛抱づよくなるだらう。』
そのあとから、エロスが、ちよこちよことかけよつて、かういつた。
『僕の贈物は、温かい、やさしい心だ。
見たところが可愛らしいばかりでなく、心もやさしくなるだらう』 
最後に進んだのは、使神ヘルメスであつた。
かれは目をぱちぱちさせながら、いそがしさうに、人形の目と耳と鼻をなでて、かういつた。 
『わたしの贈物は好奇心だ。
何事でも、見たい、聞きたい、知りたいと思うのが、この女の心持ちになるだらう。』 
かういつて、ヘルメスは女の舌の先へ指をふれたが、それつきり何もいはずに、あとへさがつた。
その時、ゼウスは、玉座の上から、黃金の笏をのべて、かるく女の頭の上へのせた。
『立て、女よ。』 
いふや否や、女はすつくりと立ちあがつた。
『神々から、いろいろな贈物があつたのだから、お前は『パンドラ』と名のるがよい。』
ゼウスは新らしく造られた女に向つて、かう命じた。
『パンドラ』とは、『何一つ不足のない女』といふ意味であつた。
それからゼウスは、使神ヘルメスを呼んで、かういひつけた。
『この女をつれて、地へ下つて、新らしくできた男に授けて來い。
そしていゝ時にも、わるい時にも、 悲しみにも、よろこびにも、男のつれであるやうにしろ。
それからこの匣を、一しよにもつて行け。
これは結婚の贈物として、わしが授けるのだが、どんなことがあつても、あけてはならないのだ。
きつとわしのいゝつけたとほりにするのだぞ。』  
かういつて、ゼウスは新らしく造られた女と一つの小匣をわたして、ヘルメスを地へ送つた。
ヘルメスは、パンドラの手を引いて、ゼウスの宮殿を出ると、間もなく、地へ下つて、新らしい人間の建てた小屋へついた。 
『これはゼウスの神から、お前の妻として、贈られたのだ。
名は『パンドラ』といふのだ。
こゝにお前 たちの結婚の贈物があるが、この匣は決 して開いてはならない。
いゝかね、それでは、これでお別れだ。』
かういつて、ヘルメスは女と匣を男の手にわたして、天上へ歸つた。 
男は新らしいつれが出來て、急に幸福になつた。
バンドラは美しい、親切な、心のやさしい、快活な女であつた。
男はパンドラのそばにゐると、まるで新らしい世界へでも來たやうに考へられた。
かれは自分 のつくつた小刀や、槌や、斧や、鋸や、弓や、槍や、釣針や、いろいろなものを出して、女に見せた。
バンドラはまた、糸をとるにつかふ紡錘や枠の造り方や、布を織る時の織機の製法を話した。
それからまた、 夫にたのんで、髪をとめるピンだの、縫針だの、編物針だのを造つてもらつた。 
男が仕事に出て行つたあとには、バンドラはひとりで留守をしてゐた。
部屋の隅には、天から下る時に、 結婚の祝物だといつてもらつて來た、美しい象牙の匣が、おいてあつた。
バンドラは紡いだり、織つたり、縫ひ物をしたり、編物をしながら、ちよいちよい匣の方へ目をむけた。
匣には、蓋にも、身にも、一面に、美 しい彫がしてあつた。
それを見るたびに、パンドラは、心のうちで、こんなことを思つた。 
『あの中には、一體、なにがはひつてゐるのだらう。
あんなきれいな匣に入れてくださるくらゐだから、 きつといゝものにちがひない。』 
バンドラは、をりをり、仕事の手をやすめて、匣のそばへ行つて見ることもあつた。
けれどる大神から 『この匣を開いてはならない』といはれた言葉を思ひ出すと、わるいことでもしたやうに、そつとまたもとの場所へもどつて來た。 
けれども毎日、毎日、ながめてゐるうちに、好奇心は日ましにつのつて行くばかりであつた。
しまひには、見るばかりでは、がまんが出來なくなつて、遂に手にとつて、なぜて見たら、ゆすつて見たり、耳をあて、聞いて見たり、鼻をおつつけてかいで見たりした。
けれども匣の中からは、なんの音もしなければ、なんのにほひもしなかつた。
なんとかして、蓋をあけないで、中身を知る法はないかと、いろいろに氣をもんで見たが、どうしても、思ふやうにゆかなかつた。
今では、匣のことが氣になつて、どうかすると、夜も眠れないことがあつた。
夜中に、ふと目をさまし て、夫に向つて、かういつた。 
『あの匣の中には、一體、なにがはひつてゐるのでせうね?』
『それは分らない。
あけて見たら、分るだらうが、あけてはならないといはれたのだから、仕方がない。
まあ、いゝから、ねようよ。ねむくつてたまらない。』
かういつで、男はまたぐうぐうと眠つてしまふのであつた。
けれどもバンドラは、もう、夜も、晝も、匣のことばかり気になつて、じつとしてはゐられないくらゐであつた。 
『あけて見て、わるいくらなら、なぜあんな匣を下すつたのだらう。
下すつたからには、ちよいとぐらゐ、あけて見てもよささうなものだ。』
かう思ふと、パンドラは、もう、どうしても、がまんが出來なくなつた。
彼女はふるへる手先で、そつと匣をあけた。
すると匣の中からは、なにかつきあげるやうな手ごたへが して、匣の蓋をぱつとおしあけたと思ふと、澤山の羽虫のやうなものが、飛び出した。
それは匣の中に封 じられてゐた、心配や、悲しみや、疾病や、貧苦や、怒りや、嫉みや、憎しみや、いつはりや、恨みなぞの、醜い、恐ろしいものが、一度にばつと、飛び立つたのであつた。
バンドラはあわて、蓋をしめたが、もう間に合はなかつた。
醜い羽虫らは、彼女の髪へとまつたり、耳 のそばで、ぶんぶんいつたり、部屋中一ばいになつて、しばらく飛びまはつてゐたが、そのうちに、窓か ら飛び出して、世界中へ散ばつて行つた。 
バンドラはまつ青になつて、ふるへながら、しつかりと匣をおさへつけてゐた。
その時、匣の中から、 かすかに、泣くやうな聲で、 
『出して下さい。出して下さい。』 
といつて、しきりに匣をたゝく音が聞えた。 
パンドラはそつと匣をあけて、もう一度、匣の中をのぞいて見た。
その時、匣の中からは、かはゆらし い、小さな羽虫が、たゞ一つ、飛び出して來た。 
『パンドラさん。わたしは『希望』といふものです。
これから先、いつまでも、あなたのそばにゐて、 あなたのお友だちになりませう。
あなたはこの匣を開いたので、人間の上に、悲しみは絶えないことにな りましたが、せめては、心ばかりのなぐさめを與へて、どんな苦しみにも、ふみこたへてゆくだけの力をつけるのが、わたしの役目です。』 
この言葉をきいた時に、バンドラの頬には、かすかに血の色がのぼつて來た。
そして胸のうちに、新ら しい勇氣が芽を出した。
どんな苦しみの中にゐても、希望だけは、自分のそばをはなれないことが分つたからであつた。 
四つの時代
人類の起源を說明した神話詩人は、更に人類の歷史を、四つの時代に分けてゐる。
第一は黃金時代で、 人類が何の罪をも知らず、無限の幸福を享樂した時代であつた。
地上には、永への春が續き、百花は、到る處に咲き、匂ひ、野にも、山にも、果實は累々として實り、牛や、羊の群は、自然に繁殖した。
乳と酒が、泉のやうに、地から湧き、槲の木からは、琥珀色の蜂蜜が流れ落ちた。
かういふ自然の献物を受けて、すべての人間は、苦勞もなく、心配もなく、病氣もなく、老衰も知らずに、神のやうな生活を送つてゐた。 
まだ法律といふものは、作られなかつたけれども、正義と眞理とは、 人間の間にゆきわたつてゐたし、戰爭がないので、市のまはりに、城壁を築くといふやうなこともなく、 劔とか、槍とか、兜とかいふやうな武器も、必要がなかつた。
そして人間が、地上の生活に疲れた時分になると、靜かな眠りが這ひ寄つて、樂しい夢のうちに、彼等を靈魂の世界へ運んでゆく。
一たび靈魂となつた人間は、目には見えないけれども、なほ精靈として、この地上に住み、地上の人類を保護して、富や幸福を授けるのであつた。
黃金時代の間、天上では、クロノスの永い治世が、續いてゐたが、天地の主權が、クロノスからゼウスの手へ移ると共に、新らしい人類の時代がはじまつた。 
第二の銀の時代になると、もはや永への春は去つて、春、夏、秋、冬の四季が、地上に現はれ、人間は冬の寒さと、夏の暑さを凌ぐために、或ひは洞窟に隱れ、或ひは森の奥へ逃げこみ、或ひは小枝を編んで 小舎を造るやうになつた。
地を耕し、種子を蒔くことが、必要になつた。
さういふ智識が加はると共に、人間は次第に神に遠ざかるやうになり、神に犧牲を献げることも忘れてしまつた。
この時代の人間は、以 前の黃金時代から見ると、身の丈に於ても、智能に於ても、遙かに劣つてゐた。
その上、幼年期が長く、成年期が短くなつたので、人間は、子供と同じやうに、互に我意を張つて、爭ふことが多くなつた、
この時代の人間は死ぬると同時に、地下の世界へ送られて、亡靈となるのであつた。 
第三の銅の時代に入ると、人間の氣質は、いよいよ荒くなつて、銅の武器を揮つて、互に殺し合ふのが日常の事になつた。 
この時代の人間は、身體に於ても、氣質に於ても、神々に反抗した巨人そつくりであつた。 
第四の鐵の時代になると、人間の世界には、罪惡が洪水のやうに漲つて、正義と眞理とは、永へに地上を見棄て、暴力と不義とが、それに代つた。
森林はしきりに伐採されて、家に造られたり、船に造られたりした。
これまでは、共同で耕してゐた土地を、人類は互に分割して、所有する樣になつた。
人間は土地の表面に生ずるものでは、滿足が出來なくなつて、內部まで、掘つて行つた。
そこから、黃金を掘り出し て、互に相爭ひ、また鐵を掘り出して、それを武器として、戰爭をした。
親子、兄弟、夫婦の間でも、互に信ずることが出來なくなり、地上は殺戮の血でひたされた。
神々は、次第に、地上を見棄てゝ、天へかへつて行つた。
無邪氣と純潔の女神アストライアだけが、最後まで踏みとまつてゐたが、この女神もとうとうこの地上を立ち去つてしまつた。
人類は墮落の底に沈んでしまつた。 
大洪水
人類の墮落は、終に神々の目にもあまることになつた。
大神ゼウスは、天上から、この有樣を見て、急に神々の會議を開いた。
神々の顔がそろふと、大神は一同に向つて、人間界の有樣を話した。
『人間の罪惡は、黑雲のやうに立ちのぼつてゐる。
人間の口からは、もはや讃美の歌は聞えないで、ただ不平の叫び聲があるばかりだ。
毎日、地上からのぼつて來るものは、家のやける煙と、互に殺し合ふ武器の響きばかりだ。
かういふ堕落した人間を、根絶やしにして、新らしい人類を、地上へ下さうと思ふが、 みんなの考へはどうだらう。』 
かういつて、大神は神々の意見をたづねた。
ゼウスは、初めは電光を投げ下して、なにもかも、燒きつくす考へであつたか、火で燒くよりも、水で溺らす方が、たしかだと思ひなほして、さういふことに相談をきめた。 
そこでゼウスは、まづ恐ろしい風を起して、眞黒な雲で、空をうづめてしまつた。
その雲の中からは、 雨が瀧のやうに地上へ流れ落ちた。
それでも足らずに、ゼウスは弟のポサイドンを呼んで、海の水を、陸の方へ溢れ出させ、また河の堤を切つて、地上へ注がせた。 
その上になほ、地震を起して、地を震はせたので、家と いふ家は、殘らず倒れ、山は崩れて、谷をうづめた。
村も、町も、今では、もう、水の底に沒 して、家畜、野獸も、人間も、水にさらはれて行つた。
わづかに生き殘つたものは、方々の山の上へ集まつて、ぶるぶると震へてゐた。
狼は小羊と一しよに、水の中を泳ぎまはり、獅子は鹿と一しよに、逃げまはつてゐたが、もう噛みあふだけの氣力もなかつた。
人間も、今では、戰爭を止めて、みんな一しよに手をあげて、天の神々に祈つた。 
さうしてゐるうちに、雨はいよいよ降りつゞいて、水はだんだんと増すばかりであつた。
山々の峰も、 一つ、一つ、水の底へしづんで、船をもたないものは、もうみんな死んでしまつた。
それにまた風が吹い て、山のやうな波が立つので、船にのつたものも、岩へ打ちつけられて、水の底へしづんだ。 
最後に、山といふ山は、殘らず水の底に沒して、たゞ一つ、パルナソスの山だけが、水の上へ頭を出してゐた。
そしてデウカリオンとピルラの一夫婦をのせた一艘の船だけが、水の上にうかんでゐた。
この夫婦は、罪でうづまつた世界のなかで、罪の汚れに染まなかつた、たゞ二人の人間であつた。
であるからゼウスは、すべての人間と、總ての獸類を、水の底にしづめたなかで、この二人を保護して、その船を、パルナソスの頂へつけた。 
間もなく、風がやみ、雨もやうやう降りやんだ。
その時、ポサイドンは、その子のトリトンに命じて、合圖の貝をふかせると、海の水は、次第に引きはじめた。 
今迄日をかくしてゐた黑雲も、次第に晴れて、青空が見えはじめたので、夫婦は船から出て、岩の上へ おり立つた。 
その時、デウカリオンは妻の顔を眺めて、かういつた。 
『この世界には、お前とわたしよりほかには、人間といふものは、なくなつてしまつた。
だれも、かれも、みんな死に絶えてしまつて、今では話相手になるやうなものは、もう一人もない。
これはまあ、どうしたらいいんだらう。』 
かういつて、しばらく考へこんでゐたが、そのうちに、なにか思ひついたやうに、手をうつて、かういつた。
『いや、これは惡かつた。
人間は死に絶えても、神々はまだのこつておいでになる。
一つ、神々のお心をうかゞつて見よう。』 
二人はそろそろと山を下つて、麓の方へ歩き出した。
そこには、一つの洞窟があつて、その奥から、神 の聲がきこえるといふことになつてゐた。
二人は、この洞窟の口元へ行つて、地上にひれ伏して、神に祈つた。 
『闇の中から、すべてを見とほしておいでになる女神樣。
どうぞ、この世界に、二人ぎり、とりのこされた、あはれな人間に、目をかけて下さいませ。
わたくしどもは、なんにも知りません。
どうぞ、どうしたらいいのか、おをしへ下さいませ。』
すると洞窟の奥から、不思議な、神々しい聲が、きこえて來た。
『頭をつゝめ、帶をとけ。
山を下れ。
道々で、母の骨を、うしろへ投げろ。』
二人はびつくりしてしまつた。
なんのことか、いくら考へても、その意味が分らなかつた。
『恐ろしい洪水で、なにも、かも、流されてしまつたあとで、どうして母の骨を見つけることが出來ようぞ』 
こんなことを思ひながら、二人はしばらく、この神託の意味を考へてゐた。
そのうちに、デウカリオン は、ひとり言のやうに、かういつた。 
『われわれを生んでくれた母といふのは、大地よりほかにはない。
さうすれば、母の骨といふのは、石のことであらう。
まあ一つ、この解釋が、當つてゐるか、どうか、ためして見よう。』 
そこで二人は、頭をつゝみ、帶をといて、山を下つて行つた。
そしてその途中で、石を拾つては、うしろへ投げた。
すると後の方から、人の足音がして、なにか呼ぶやうな聲がきこえるので、振りかへつて見ると、デウカリオンのうしろからは、見なれない若い男が、手をひろげて、なにかいひながら、追ひかけ て來た。
ピルラのうしろからは、若い娘が、同じやうに、なにかいいながら、追いすがつて來た。 
デウカリオンは、もう一度、石を拾つて、うしろへ投げた。
そしてどうなるかと思つて、見てゐると、その石の落ちたところから、ひとりの若い男がとび出して、自分の方へかけよつて來た。
そして走りなが ら、大きな聲で、 
『おとうさん、おとうさん。』 
と呼ぶのであつた。
 ピルラも同じやうに、石を投げて見ると、石の落ちたところから、別な女の子がとび出して、
『おかあさん、おかあさん。』 
といひながら、かけよつて來た。 
かうして二人は山を下りながら、道ばたの石を、拾つては投げ、拾つては投げして行つたので、谷の底へついた時には、もうよほどの人數になつてゐた。
そこでデウカリオン夫婦は、この一族の長となつて、家を建てたり、地を耕したり、葡萄をうゑたり、機を織つたり、着物を縫つたりすることを敎へた。 
かうして地上には、敬虔にして、强健な、新らしい人間の一族が繁榮した。
であるからギリシヤ人は、 デウカリオンとピルラを以て、自分の祖先とした。
デウカリオンの子をヘレンといひ、ヘレンには、アイオロス、ドロス、アカイオス及びイオンの四子があつた。
この四人 の後裔が、後にギリシヤ半島に蔓延したアイオリヤ、ドリヤ、アカイヤ及びイオニヤの四種族になつたと いふ傳說から、ギリシヤ人はその共通の祖先たるヘレンの名をとつて、自らヘレネスといひ、その國をヘラスと呼ぶやうになつた。 
新らしい世界
神の起した大洪水によつて、新らしい人類は、再び新らしい世界の上に繁殖した。
ギリシヤの神話は、此世界を、一つの平圓盤と考へてゐた。
その中央には、自分の國があつて、神々の住むオリムポスの山が、その中心になつてゐる。
この大地の平圓盤は、西から東に通じた、細長い海で、南北の兩部に二等分され、 この海は、また、地中海とエウクシネ海の二部に分れてゐる。
世界の周圍はオケアノスといふ大河でとりまかれてゐて、西方では、この河が南から北へ流れ、東方では、その反對に、北から南へ流れて、丁度尻尾をくはへてゐる大蛇のやうに、この世界をぐるりと圍繞してゐる。 
古代のギリシヤ人は、この河を世界の本源と考へ、又地上のすべての河と海とは、みんなこの河から水を受けてゐるものだと思つてゐた。 
地中海の沿岸の地には、その南に沿つて、リビヤの沙漠があつて、そこには、眞黒なリビヤ人が住み、そのまはりには、蓮の實を食べて、苦勞のない日を送つてゐるロトファギイ族や、鶴の卵の殻を家とするピグミイといふ矮人族がゐた。
北方の沿岸には、イリリヤ族、 トラキヤ族などいふ半野蠻の民族が住み、またその北には、スキタイ族、サルマチヤ族などの蠻族が擴がり、更にその北は、キムメリヤ族の暗黑の領土につづいてゐた。 
更に北に進むと、世界の極北には、夜を知らない國があつて、ヒペルボレ族といふ人民が住んでゐる。
その國は、ヘラスの半島へ、身を切るやうな北風を送つて來る、山中の洞窟を越えた彼方にあつて、その住民は、冬といふものを知らず、永遠の春と永遠の幸福のうちに、世を送つてゐる。
そこには、病氣といふものもなく、年をとるといふ事を知らず、衣食は自然に備つてゐるので、その住民には働く必要もなく、また爭ひの種子がないので、戰爭といふ事も知らずに、永へに、平和な、幸福な日を、樂しんでゐる。
けれども、その國には、海からも、陸からも、よりつく道がないので、まだ實際に、そこへいつたものは、一人も無かつた。 
また世界の南の果には、オケアノスの流れに近く、エチオピヤ族といふ人民が住んでゐる。
この人民も、ヒペルボレと同じやうに、幸福な生活を送つてゐるが、特に神の恩寵がこの人民に深く、オリムポス山上の神々は、折々、その國へ出かけていつて、この人民の犧牲や、饗應を受けることがある。 
それから、世界の西の果には、オケアノスの流れに沿うて、エリシオンの野があつて、そこにも、永遠の幸福と不死の生を楽しむ人間が住んでゐる。
現世で、神々の恩寵をかうむつた、英雄や、勇士は、この世を去つたのち、ここにうつされて、不老不死の生を送るのだと信ぜられてゐた。
大地の西のはては、ヘラクレスの柱で限られて、その近くには、巨神アトラスが、ゼウスの命によつて、天を擔つて立つてゐるが、それから西の大洋には、『夜』の娘なる三人の處女が、 黃金の實をつけた神の林檎を守つてゐる、ヘステリデスの園や、三人の魔女ゴルゴンの棲む、形のない島があると言傳へられてゐるが、そこへ行く道は、誰にも知られてるなかつた。
又地の東の果は、壁のやうにそり立つた、カウカソス及びタウロスの二大山脈で限られてゐて、その麓には、日の神の裔なるアイエテスを王とするコルキスの國や 女武者で名高い、アマゾンの國があつた。 
世界の上方は、無數の星をつけた、空の圓天井でおほはれ、『暁』や『日』や『月』は、いづれも、オケアノ スの東側から昇つて、人と神とに光をあたへながら、空を橫ぎつて、西の方へ沈んでゆく。
星も、やはり、 同じやうに、ただ北斗星を中心とした一群を除けば、みんなオケアノスから出て、オケアノスの中へ沒してゆく。 
又この大地の下には、廣大な、闇の世界があつて、この世の生を終つたものは、この地下の領土へ運ばれてゆく。
そこには、また、天の高さにも等しいほどの深さをもつた、タルタロスといふ地獄があつて、非常に堅固な黃銅の門で、厳重に保護されてゐる。 
ギリシヤ及びイタリヤの諸方には、昔から、下界への降口だといはれる場所があつた。
それは、或いは 石灰質の地層で、表面の水を吸收して、地下の水脈を形づくつてゐる處とか、奧底の知れない洞窟とか、地層の割目から、毒瓦素を放散するところとか、いふやうな場所で、ギリシヤでは、ペロポンネソス半島 のタイナロン岬の洞窟、イタリヤでは、クメエ市の近傍にあるアヴェルヌス湖などが、最も有名であつた。
これらの口から地下の世界へ降ると、そこには、スチクス河の眞黑な水が、闇の世界を流れてゐて、渡守カロンの船へのつて、この河を渡らなければ、ハデスの領土へはいることは出來ない。
その領內には、更に火の河ピリフレゲトンの、しほからい涙をたたへたコキトスだの、眞黑な水の流れる、悲しみの河、アケロンだのといふ大河が、縱橫に流れて、地上から降つた人々の行手をさへぎつてゐる、と傳へられた。 
以上の概說でも分る通り、神話時代のギリシヤ人の見聞の範圍は、殆んど地中海の沿岸地方に限られて、その以外の區域については、たゞおぼろげに想像してゐた有樣が、この地の圓盤の周囲に、神々の恩寵を蒙つた人民の住地と、巨人や、矮人や、怪物や、魔女の棲所をおいたことによつても、想像されるであらう。 
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