「コーラン經」 凡例
「コーラン經」は日本初のコーラン全文翻訳本です
「コーラン經」は<譯者・坂本健一>{上下二巻}として世界聖典全集刊行會から(大正九年)発行されました
「コーラン經」の構成は凡例、目次、114品(章)の本文、附録として各品(章)の解題と註釋、イスラム教とコーランについての詳細な後書きから成っています。
ここでは凡例を紹介します
本文の漢字・ルビ・送り仮名は大正時代そのままの形を復刻できるように努めました
凡例
 アルラン(可蘭經)の此譯を讀まんには必ずまづ末書後の拙稿を通讀さる可し。
此聖典に就きて多少の知識を未知の彦に供するのみならず、また此凡例の缺を補ひ得んために。
 此譯本は、亞剌比亞文原本を坐右に備へしも、譯者の原語の知識に貧しきため、主としてセル、ロドエル、.パルマーゥ譯本を參照して成れり。
段落篇章に就きてはホェリ本に出でしアブヅルカドルにも據れり。
蓋し簡潔勁の名篇を爲さんとして不明に失せんよりは、寧冗に流れんも丁寧詳密を期せんと欲せしなり。
 經の次序は、學者の考證若しくは傳による年代順に據らず、通行本の順序に從ひ、首に品名を標出し次數をげ、その年代順の考定は之を目次の下に註記して參照の便に供せり。
經品にはその天啓垂示の地方によりて默伽(メッカ)默コ邦(メヂナ)書の別あり。また品題の下に註記す。
但しその當否は附録の解題を參照す可し。
 イスラムヘ徒は百十四品の別よりも寧三十部の區分を用う。
故にその三十部と殘剩としての四分一、半、四分三の區別を章別とともに保存せり。
但各品の章と各部の章とは括孤と字體とを以て分つ。
然れども斯る章別はその容に對しては頗無關の截斷たること多し。
故に之を尊重するとともに、特に容を重んずる者の爲には一行の空白を設けて段落を分って標目と爲す。
但その別と一致せる所には行間を特設せず。
 經文は歐人の所謂ワスより成る。
スは必ずしも詩句の意に非ざるもその調格音階頗る之に類し長短錯落相依りて文を爲せば、若し句に譯出せんには悉く行を別たざるべからず。
西歐の譯本之を爲せるあり。
而もさなきだに全經の默示~語は多岐錯出して時に支離の傾向さへあるに、更に句を截ちて行を別たば到底紛糾百端を免れ得ず、且斯くすればとて原語原音にあらざるよりは終に何等格調の妙を傳ふるに足らず。
故に今譯は可及的辭句の連續命意の通徹を圖るに力めたり。然れども~誥聖語、易刪を敢てす可きに非ざれば、悉くその句數、則、節數を記入し、句を逐ひてし、能ふ限り句節を超えざらんを則と爲す。
例之ば、何を某に授けよといふに、その閧ノ節句の截斷あれば、某に授けよ何をと爲し、云といふべしとあるを、いふべし云と轉置するの已むなき皆是なり。
此の如きはひて原經に拘泥するの誹あらんも、多少たりとも、舊面目を存せんと欲せし微意と、斯る聖典の常として他に引用參照の時何の經何の章何の節にといふに、斯く爲されば索の便を失ふを恐れし用意なり。
 されど節句の段落を以て辭意の必ずしも切るにあらず、時に或は章を起えて連續せるあり、此の如きは須らく章段に拘らずして連讀す可し。
また經文中に括弧を施せる若干の文字あり。
こは原經に無きところなるも、斯くせざれば辭意の解し難く、假令解し得んも之あるが爲に更に通じ易からしめんが爲に、特に補せるものとす。
語を換へていは亦一種の註文釋語たり。たその註釋と異なるは、そは直に括孤外の本文と連讀し得るとともにまた之なきも本文の通誦し得らるべく留意せしに在り。
故に若しその繁を厭ふの士は充の文字を眼中に置かずして可、その詳を辭せざる人は括孤を無視するも亦可。
例之ば爾曹(~を)畏れよとあるを、爾曹畏れよと讀むも、爾曹~を畏れよと讀むも自由なるべし。
 經中の固有名詞は甚多からず、假令處に散在するも大抵同一名詞の累出なり。
その中片假名を以て音譯せる者の多數は亞剌此亞音に據らずして、基督經典西方の史志によりて夙く歐人の耳目に熟せる稱呼を採れり。
例之ばコランは寧クランなるべく、ファラオはフィラウンと呼ぶべく、ノアをヌ、モセをムサといふべきも、然せず、ハルンをアアロン、イブラヒムをアブラハムと爲せるが如し。
但經名に用ひし所と亞剌此亞特殊の名詞とは原音を採れり。
漢字の譯はね之を避けたれども猶エジプトを埃及としヤソを耶蘇とせるが如く、マホメットに麻訶末、コランに可蘭の字面を用ひたれど、そは極めて少數にて、且假名を添へ末に註を附したれば讀者の累と爲すに足らじ。
 各品の冒頭に亞剌比亞單字の標號あり。
牛品のエリフ、ラム、ミム(A.L.M.)の類なり。
之に就きては解題と書後の文中にあり。
 末に簡單なる各品の解題、默示の推定年時容の標目を列擧して附の一となす。
容の極めて多岐複雜なる此經の如きに在りては、檢索の勞を省き梗を得ると共に單に本文のみにてはその時處對象の知り難く解し難きを明白ならしめんが爲なり。
その標目の下の括孤の數字は節を指す。
 更に附の一となせる註釋は、最多くは其詳細を極めたりと見ゆるホェリに據りしも、閭}クスミュラ叢書のパルマに參照し、或はロドエルに據りしところあり、また稀には自註あり。
但し本文の讀破了解に資する程度に止めて、異論議批判の如きには及ばず。
 凡あらゆる聖典は難解の書たり。
而して難解に於て此經亦決して他の典に遜らず。
されば讀者は品題と目次との下にて默示の次序地方を知り、解題にて年時容を知り、然る後に經文中の補の文字と卷未の註釋とを參照觀されんことを希望す。
斯くしてアルランが如何の經典たるかを解せられんには譯者當面の望足れり。
天方の豫言者の長廣舌を活寫してその聲調風貌~韻を躍出せしむるが如きは、能と不能とに論なく、今顧るに遑なし。
大正八、十月上旬
舟生
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